君の名は。(ネタバレ多めのためツイッターで書けない補遺)

「作戦の名前を言ってみろ」「神酒がポイントだから"ヤシオリ作戦"で」

 実を言うと、君の名は。観る前に一番懸念していたのは、俺が童貞とかどうとかそういう問題よりも「なんかシンゴジに続いて311ネタ映画らしいけど(そこだけ軽度のネタバレを喰らっていた)どう対処するの?」という部分だったりした。タイムスリップして滅亡の危機を叫ぶが誰にも取り合ってもらえない・・・という話、いったい何のアニメだったか、俺の頭のなかでぐるぐると蠢いていてタイトルが思い出せない。まさに君の名は、である。オカリンとほむらちゃんも大変だったなぁ。サラ・コナーなんか精神病院直行だったじゃん。


 そういうわけで、いよいよ「対処」のハイライトとなっていった場面でまずおばあちゃんが三葉ちゃん/瀧君の状態に気がついたこと、その上で信じて貰えまいという常識的な話をしたあたりはかなり嬉しかったというかホッとした。作劇の流れとして、対処前にこの流れがあったということが、どれほど心強く安心できることか。おばあちゃんのおかげで三葉ちゃんは大恥かかずに済んだわけである。今話題の共感性羞恥ってアレ、割とシャレじゃねーしなっていうのも大きい。


 その後「具体的にどうするか」という部分もまた本当に美事であった。そうか、その手があったか。ツイッターで散々しつこく書いた伏線の話がついにここで炸裂するわけだ。炸裂のさせ方がこういう風に上手いわけだ。やってくれた楠、新海誠ォ・・・。恐らくは繭五郎の大火もそういうことだったんじゃないか、とさりげなく推測させてくるのもイイ。そういや本尊がやたら遠いのもそういうことなんだろうな。繭五郎さん大変だったねぇ(涙)。


 若干不思議なのは、震災映画という(雑な)枠組みで考えたときこそ、シン・ゴジラ君の名は。に妙な共通点が浮き出ることである。震災映画という共通点ではない、「震災に具体的にどうやって立ち向かうか映画」という共通点だ。アイツら震災に挑む気だよおいおいマジか・・・ってワケだ。


 単に震災映画というだけなら、それこそ震災で亡くなった彼女への想いが〜とか、そういう平凡な(いや何も平凡じゃないんだが、すまん、ここは悪意のある書き方をさせてほしい)ドラマもある。幽霊と交信したりもう二度と会えない切なさを慈しんだりしてもいい。だがシンゴジも君名も決してそういう方向には行かず、オラァ血液凝固剤!!オラァ町内放送!!オラオラァ!!と全力で殴りかかっている。もう一度書こう、「アイツら震災に挑む気だよおいおいマジか」。2作とも奇跡に祈らず、地震を止めるという超展開にも甘えず、できる範囲——少なくとも観てる観客が「できそう」「これは・・・イケるんじゃねぇか・・・!?」とスムーズに思える範囲での対処法で全力で殺しに掛かってくる。


 俺個人の性癖としては大歓迎なのだが、ただ世間として/ふたつの作品としてなぜそのようなストロングスタイルを取ったのかがよくわからない。これはたぶん、「セカイ系の主人公の無力感が時代によって忌避されて〜」とか「これがポスト決断主義ですよ〜」とかいうありきたりな結論で片付けるべきではない。あえてべき論で書く。シンゴジも君名も、きっとそうではないのだ。じゃあなんなんだ、というのがわからないが。311に半人災という誤ったイメージがまとわりついてる、つまり「ああすればよかった、否、俺達ならああできる」という不遜な誤解でもあるのだろうか。
 違うな。絶対に違う。それならもっと作品の手つきが下品を極め、俺TUEEEな酷い作品(なろう系というより、俺らがなろう系を読まずに揶揄する際の架空の俺TUEEE作品的な意味だぞい)になっているはずだ。阪神の後もそうだったんだろうか(そういや俺、かえるくんもJDCシリーズも未読なんだよな)。


 誰でも願うことはできるが、願いを実装するのは難しい。実装して望む結果を出力するのはもっと難しい。シン・ゴジラ君の名は。の2作は、言わば「難しいチャレンジをガッツリこなすプロの人の物語」だと極論できなくもない。特殊な訓練を受けたスタッフによるエクストリームスポーツ。だから俺個人は大好きなのだ、と同時に、そのアンリアリティ——リアルとリアリティの違いを思い出して欲しい、そしてこれは「俺には身近ではない」という意味でのアンリアリティだ——にドン引きする人もいるのではないか、とも少し想う。巨災対のプロフェッショナルぶりとは違うが、瀧君/三葉ちゃんの活躍は、口噛み酒とラスト以外はどう観ても奇跡などではない、あの二人の実力だ


機動戦士ユアネーム Re:2016年の旅

 ここまで読んで頂いた奇特な方にはお分かりかと思いますが、俺が君の名は。でどうしてもピンと来なかったのが口噛み酒のくだりであった。いや、アレで入れ替わりがもう一度起きるのは全然構わん。ありゃ牧教授のデータだから別にいいんだ(違)。問題なのは、劇中で確かあの口噛み酒に「これは牧教授のデータだ」という解説がなかったことである。体の一部〜とか伝奇的な解説とかはもちろんあったが、そこで「・・・というわけで、呑むと想い人と想いが繋がるんじゃよ(※これは雑例です」とか、そういうレベルでの解説はなかったはずだ。いや俺が見落としただけか。いや糸の話はしてたけど・・・。


 つまり瀧君は、口噛み酒を飲めばどうにかなると「どうしてそう思った」んだろうかって話である。あれだけ伏線バリバリのロジカルな映画なのに。例えば、いえ揚げ足取りですけどね、アレ呑むんじゃなくって被災地の湖に捧げるとかだったらどーすんだよっていう・・・。


 ところで呑んだあとのトリップシーン、脅威の作画とお父さんの半生が混じってこれまた俺大好きな場面なんですが(「私が愛したのは神社じゃない、一葉だ!」って本当に良い台詞じゃないですか。女に恋し家族を愛したおとこの悲鳴、凄くいい)、ただガノタ的にはアレがどうしてもララァ死亡/フロンタル大佐と一緒にサイコ旅行/ELSと和解にしか見えず笑いそうになってアレだった。イイ場面なのに・・・本当に良い場面なのに・・・あとこの手の演出、厳密にはガンダムじゃなくて2001年が真のソースなのに俺・・・(←

シン・ゴジラ(ネタバレ感想)

戦うということ

 一作目・初代ゴジラのラスト。異端の博士がもたらした悪魔の技術。オキシジェン・デストロイヤーは核兵器をも越える危険になりかねない。人類はその力を以てしてようやっとゴジラを抹殺し、博士もまた海に消えた。


 だから本当は、「アメリカがゴジラ核兵器で攻撃しようとしています! ギャレゴジに続いてまた!!」「な、なんだってー!?」などと騒ぐ"権利"など、初代以降のゴジラ映画にも観客にも無いのだ。
いやこれはもちろん言い過ぎなのだが、人類は既に"核に互する禁忌を、やっちまったあと"なのである。ビオランテもそうだろう。だから真にやっていいこととは、核にもオキシジェン・デストロイヤーにもビオランテにも頼らず、ゴジラに如何にして立ち向かうか、という主題なのだと言えなくもない。
(そういってよければ、人類はスーパーX系列やメカゴジラ・モゲラがゴジラを打倒できなかったことをもっと真剣に憂うべきかもしれない。機龍はよくがんばった。抗核バクテリアはもっと真面目に研究すべきだ)


 シン・ゴジラでの異端博士役の人物が行方不明なのは、そういうことなのではないか。


 そしてあの決戦は、決戦に至るまでの奮戦七転八倒は、「いま、ここ」から出せうる限りの回答なのではないか。
 いまここで何ができるのか。それはシン・ゴジラに対して歯が立つのか。勝てるのか。対抗できるのか。


 できる。できるのだ。そういう映画がシンゴジだったと感ずる。


 予告編を見れば今回のゴジラが311だというのは分かりきったことに思えるかも知れない。またゴジラシリーズとしても"お馴染みのアイツが復活した"と思えるかも知れない。けれども、そういう"油断"を粉砕するところからこの映画が、真の「想定外」が始まる。なんだよアイツ、ゴジラじゃねーじゃん!!ゴジラ復活311メタファーじゃねーの!?と動揺することが、観客が災害に見舞われることと一致する。会議中略とか「上陸しちゃったの!?」とかで笑っていられたさっきの瞬間からここへ。
 そこからはひたすら悪夢と衝撃のオンパレードになる。こんなの知らなかった。こんなの想像できなかった。ポケモンみてぇに進化するとか聞いてねーよ。なんで避難完了してないの。その衝撃は、今までのゴジラに見慣れてきた人こそ強く受けるはずだ。ゴジラに通常兵器は効かないという常識を、観客はいつのまにか忘れる。忘れたふりをして多摩川決戦を観る。いやコレ通常兵器効かないとマズいっしょ、といつの間にかのめり込んで心配する。会議と会議と会議という悪癖を乗り越えた先に、自衛隊が実際に怪獣と戦う時は頭部と脚を狙うぞという与太話がフィルム上で現実になり、米軍の貫通爆弾なら流石に怪獣の皮膚だって貫通するでしょという常識感がフィルムに叩きつけられる。


 そう思ってスクリーンを見つめていたら、襲ってくるのはあのイデオン無双だ。


 ゴジラが対空拡散ビーム撃つなんて聞いてねーよ!という不条理。そうなのだ。54年に初めてゴジラを観た観客のひとびとが、その直前まで"かいじゅう"という概念をどれだけ知っていただろうか。空襲の記憶がそういう形で再び襲ってくるなんて誰が事前に予想できただろうか。東北の海からあんな大地震が起きるなんて誰が知っていただろうか。
 けれども現実は起きてしまった。原発が事故を起こすことを想像していなかった政府がー東電がーとよく言うが(また、言うことそのものには問題無いが)、じゃあお前は実際に想像できていたのか?とシンゴジは問うてくる。
 いや無理でしょアレは。


 けれども、映画の登場人物達は戦いをやめない。最初から最後まで戦い続けてやめない。正直言って戦略的には最悪の映画というか、最悪手以外に選択肢が無いという酷い映画ではある。劇中でわざわざ台詞で「第二次大戦時の日本は慢心油断フガフガ」って言ってるくせに、決戦の作戦が「あと弐千万特攻を出せば日本は勝てます!!」寸前じゃん。寸前であって完全同一ではない、という点を絶対に忘れてはいけないにせよ。本当にそれ以外に選択肢が無いという悲劇が前提であるにせよ。
 しかし前提を差し置いてもなおその悪手を取らねばならぬのは、ひとえに悪手を越えた悪手、核攻撃をなんとか阻止する・・・というか、核に頼らず人類がゴジラを撃退してみせなければいけないからだ。本当に、本当の意味で日本国残党勢力がゴジラに立ち向かうということだからだ。同じ二の舞、とはよく言うが、じゃあ同じじゃないやり方とは何だ?と、画面に出ない行方不明の異端博士は日本残党を試しているのだろう。


 オキシジェン・デストロイヤーに頼らない戦い方。核兵器に頼らない戦い方。
 フランスに頭下げたりとか全国の研究機関・工場に無理言ったりする戦い。必死に掻き集めたサンプルで薬品のテストをする戦い。放水車とタンクを掻き集める戦い。挙げ句は圧制者の筈の米国からさえ増援が来る始末(プレデターのバーゲンセールし過ぎでしょアレ)。その結果があの衝撃の最終決戦、あのJR大号泣の無人電車特攻爆弾と、どう考えても決死隊の誤字にしか思えない建機隊(機材は民間から借りました)だ。
 ドロ臭い。みっともない。それでも「いま、ここ」の人類が到達した、これがオキシジェンにも核にも頼らない戦いだ。安直な方法に逃げない、日本残党の本当の戦いだ。電車特攻と建機隊は、もはや演出としてはニンジャスレイヤー級の惨劇(ノリ・レベルとしてはフロッピー殺や野球一回表256点ぐらいじゃんアレ)だ。シラフでアレを観たらギャグにしか思えないだろうが、あの場・あのフィルムではもうあれが最強唯一のシリアスなのだ。そして建機隊の第一小隊は全滅し、一人も生き残らない。間髪入れずに次々と建機第二・第三小隊が死地に投げ込まれる。


 本当はあの膨大な犠牲を前に喜ぶべきではないのだろう。それでも、あの政治ドロドロも科学も決戦も人間がやったのだ。人間が、過ちに頼らないで、人間の手で決着をつけたのだ。


 最終的にゴジラ倒してねーじゃん、というのは本当にラストとして素晴らしいと思っている。どうあがいても人類はあの災害から逃れることはできないが、なんとか共存していけるようになった。多分それは、単純に倒すより、美しい終わり方だ。


シン・ゴジラ、個人的な燃え萌え&泣きポイント

・日本政府、基本的にダメな人がいないので泣く。ダメな習慣や制度はあってもダメな人はいない。あと自衛隊のピエール滝も良い味してる。
・主人公の友達の「まずお前が落ち着け」でガチ泣きしたのは俺だけじゃないでしょ(断言)。宇宙一かっこいいデブ枠に、また一名・・・(※現在までの登録者:ヘルシングの少佐、シュタゲのダル、実写部門だとラジニカーント様とデルトトロとPOIイライアスとウォズ)。
農水省大臣の「避難とはそこに住んでる人々に生活を捨てさせることだから、簡単に言わないでほしいなぁ」に泣く。切れ者昼行灯な人だからってだけでなく、農水省で地ベタを皮膚感覚で知ってる人なんでしょうね。実在性・・・デレマスアイドルのような実在性・・・。
・すわ普通に反米映画か、と思ったら変な位置でバランス感覚を発揮して妙な気分になる米関係描写。個人的には、駐日の米高官の、ギャグめいた逆光悪役カット場面(旧劇エヴァの第二東京かよ)で滲み出る「いや言うほどあんまし日本に核攻撃したくねぇんだけどなぁ」感はちょっと好きだぞ俺。
・「これは本当に日本のお役所描写なのか?こんな人達がこんなにスムーズに集めてもらえて部屋もらえるのか・・・?」と不安になる、政府直轄最強オタク軍団は不安になりつつも萌える。
・上では「いまここ人類の力vsゴジラふがふが」って書きましたが、いえね、ご都合主義(不明博士の不親切ヒント)とか幸運スゲーよなこの映画っていうのは流石に認める。半減期なんだよそれってのはギャグ扱いしてもいい。しかしこれぐらいの「ハンデ」はほら、人類には欲しい。

科学野郎マーシャンガイバー

三日坊主

 すっかりスペクターの感想を放置していたの忘れてたんですが、ううむ、やっぱりモチベーションというかやる気が極超音速で消えて無くなる人間なので、ハイ(反省はしていない
やっぱ長文は書けんなぁ。無理だなぁ。

劇場版火星の人

 というわけで観てきました、原作未読なのにしつこく火星の人呼称してますオデッセイ。
 だいたいの話の筋はもう知ってはいたんですが、なんか想像以上に「科学バトル映画」でビビる。文字通りのライトスタッフ、明白な才能と技能を有するプロフェッショナル集団が、過酷な火星問題とド正面から殴り合う。本当にあたまのいい人達(小並感で申し訳ないが、NASA/JPLの人達は本当に「有能・バケモノ」だ)が血反吐を吐きながら必殺技を思いつくので、ハタから観ている頭の悪い俺はヤムチャ状態になって感動するしかない。襲いかかる難題に、如何にして挑戦し克服するか? 導かれる解答が天才過ぎるあまり、一周回って狂気の沙汰にしか見えないという。
 どなたかがツイッターで「ワトニーには妻子がおらず両親の描写も略されていて、アメリカ映画にしては珍しい」的なことを仰っていたんですが、その意味で言うとこの映画は(しつこく繰り返しますが)科学バトル映画、そういってよければアクション映画の文脈だと言ってもいいと思う。アレよ、ひたすら犯罪者ビルの中で殺戮を続けるザ・レイド1を観て「妻子の感動シーンが足りない」は言うまい。いやザ・レイドにだってキチンとした兄弟愛や感動シーンはあるし、2はさらにドラマ方面へ注力して十二分に成功しているが、要はバランスの問題/そのバランスが別に批判される部分ではないという問題である。オデッセイは明らかにザ・レイド1級のストロングスタイル、全編ひたすら戦い続ける(少なくとも重心バランス取りとしてそっちに偏っている)フィルムであり、その戦い方・ヒサツワザの素晴らしさ、それを放つ宇宙開発の戦士達の有様を楽しむ映画と化している。
 原作からしてそうだったのだろうが、それがたぶんリドスコの性癖とも上手く合ったのだろう。情況(シチュエーション)が撮りてぇ!異質な物同士の衝突(ここでは人類と火星だ)を撮りてぇ!というとき、火星の人という原作は結構ガッチリはまったのではないか。
 そういうわけで、いやドラマ部分も決して蔑ろにはされていないんですが、「具体的な扱い方・取扱時間」としてはずいぶんテンポ良く処理している。そうしてまたバトルに専念するという。プロフェッショナル共の死闘ダラダラ観ていたい、という俺みたいなめんどいオタクにはたまらない映画でした。
 映像的には、冒頭が妙にプロメテウス改だったり、手術がジェイソン・ボーンvsプロメテウス改二だったりして変に笑っちゃったんですが、流石にリドスコだけあって変な部分とかはない。まぁブレランのロス夜景とか天国王国の「地平線から現れるサーラッフディーンの軍勢の灯火」みたいな「うおおおお」ってなるフック美景はないかな?と思ってたんですが、後半の火星ロードムービーとか(あんな砂漠だらけの絵面なのに)結構素敵。音楽は基本ギャグ要員かと思いきや、デヴィッド・ボウイのスターマンには完全にやられました。アレはズルいだろ、アレは。
 総じて言うと、本当に大傑作だけどコレ本当に万人向けなの?というわずかな不安もある大傑作でした。いやしつこく書くけどコレマジで全編バトル映画なんで、そこんとこ好み分かれるんじゃないか?という。科学知識が難しい、というのは意外と問題なくって、そこは正直わかんなくても何とかなるような映画になっておる。問題なのは、これが本当にプロフェッショナル達の、ユーモアを忘れないマーク・ワトニー&地上で宇宙で全速力暗中模索するスタッフ達の、本当にバトルシーンに重点し過ぎている映画だということだ。俺にとっては超絶最高なのだが。

【補足】宇宙に挑む英雄、という文脈について

彼らの、その魂は、間違いなく英雄として称えられる資格を持っているだろう。
彼らは英雄だ。

けれど、その英雄たちの名前をどれくらいのひとが知っているだろうか。
ついこのあいだ、宇宙開発の墓碑名に刻まれた7人の名前を、どれだけのひとが知っているだろうか。

――伊藤計劃


 そういえば、この火星の人akaオデッセイは正しく「宇宙開発に挑んだ英雄のおはなし」なんだよな。むかしむかし、88年生まれの俺よりもっとむかし、宇宙に挑むひとびとは大文字の英雄だったのだという。ガガーリンオリジナルセブン。そして事故で亡くなられた方々と、無事にミッションを完遂した人達。その人達の「感触」が完全に歴史になってしまった21世紀にこの映画という。
 「インターステラー」はこの件にややメタ的に言及していて、「宇宙開発とかお金の無駄でしょJK。そんなんで地球救えんの?」「うっせぇサターンVぶつけんぞ!!救えるに決まってるんだろうが!!宇宙飛行士は英雄だ!!」という物語だった(インターステラーの言う英雄はどっちかっつーとスタトレとかロビンソン一家的な感じも含んでそうだが)。ウルトラマンジャミラも結構モロに隣接している話だよな。ジャミラは見捨てられたマーク・ワトニーであり、その墓には確か「人類の夢と科学の発展のために死んだ戦士の魂ここに眠る」と彫られていたんだったか。
 宇宙と英雄、については伊藤計劃氏のポリスノーツのアレを読めばいいので、俺がここで二度三度書くことはすまい(←いやエピグラフっぽく引用二度書きしてんじゃねーか!)。火星の人は英雄の名前を墓碑銘に刻まなくてもいいようにするため、英雄自身も彼以外の英雄も奮戦する話、そう言ってよければアポロ13の正当後継者なのだ。優秀な頭脳と最先端科学(あとなろう小説でおなじみジャガイモ)で武装し火星に挑む英雄達。それが2016年という時代に公開されたのは、ちょっと不思議ではあるが、たぶん喜ばしいことなのだ。
 っと、ここまで書いておいてライトスタッフ観ていないのは結構マズいことに気がついた(滝汗)。

スペクターは蘇りの記号

「じゃあ君の趣味は?」
「蘇ること(Resurrection)」
——Skyfall


 何故かみんな先行公開だってのに観に行っちゃってるんで、集団に流される弱いオタクのワタクシも行ってきましたよ、007 specter。お美事でした。
 前作スカイフォールがこう、伊藤計劃信者としては「かなり不純な動機」で楽しんでしまったのに対し、今度のスペクターは(それに比べれば)王道な感じの映画でした。細かい事情心情に左右されず、これが007だ!これがスパイ映画だ!という印象的な。
 無論、これは誤謬だ。スカイフォールだって割とやってることは王道だし、逆に今回のスペクターも結構「メタ」なボンドになってる。ただやっぱりスカイフォールのメタ度がガッチガチの反則飛び道具だったのに対し、こっちは「それを乗り越えた後のボンドに何が残っているのか」と「ダニー"プーチンフェイス"クレイグ・シリーズの集大成」という意味/程度のメタというべきか。だからそこにはやっぱり十分な温度差があって、スペクターは順当真っ当、というイメージがあるよなぁと。
 クレイグボンドの過去、スカイフォールでさえ語られなかった部分への肉薄。謎の組織スペクターの脅威。そのふたつをスパイスにしつつ繰り広げられる、コレマジで本当に王道なアクション(筋肉暗殺者さんとか)。「そうそう、こういうのでいいんだよ」を地で行く感じの映画です。


(以下書き途中)

ハーモニーの劇場は

 感想書くのすっかり忘れてましたが、正直忘れて無くても書かなかったというか、映画としてアニメとして、要するに映像メディアとして面白くなかったので・・・。
 今屍者の感想読み返すと「コイツ正気か、すごいガイキチな売国奴じゃないか」って自分で不安になるぐらい擁護してるんですが、要はアフガンとか即身仏演算フランケンとかそういう「わずかとはいえ面白みのある飛び道具はあった」と、まぁそれぐらいはある映画だったわけで、全体・総合が酷くてもそこだけは擁護したいなっていうのは本心なわけです。それがだな、劇モニーは総合的には屍者よりマシなアニメなのに、じゃあ面白いかって言うと全面的につまらない、飛び道具が一個もないって珍しい惨事なわけです。
 ううむ、俺は劇場に「おもしろいもの」、何か普段では目に出来ない物を観に行っているんだ。それがこう、ここまでフラットに・・・フラットに何も無いフィルムを観せられると、屍者ってだいぶマシだったんじゃないか感がよぉ・・・(遠い目)。
 あ、原作レイプ度は屍者と比べるとビックリするぐらい少ないんですが(いや細かく謎い改変はちょくちょくある)、ラストの改変はやっぱ個人的にNGなのと、じゃあ改変してない方はっていうとダラダラ会話劇なわけでどうにもこうにも。押井監督や出崎監督のようなスーパー和姦をやれとは言わんが、どうにかならんかったんかのう。昔どこかで(もしかしたらTLかしらん)「ヘルシングOVAはただのVOMICじゃん」って意見を見かけたんですが、我々(ビッグ主語)はまず屍者で「VOMICの方がマシである」という悲しい真理に目覚めた後、ハーモニーで「VOMICにもダメなのと良いのがある」という壮烈な現実を目の当たりにしたわけですな。ヘルシングOVAがVOMICとしては最強の出来だった(もちろんこの意見を否定し、「アレはVOMICじゃなくてアニメだろう」という文脈に至っても、結局クオリティの高さに異論はないわけだ)からそれと比べるのがアンフェアだとしてもだ。多少色気を出そうとしてやってることが、TLでも非難囂々のカメラグルグル(3Dだから出来る、を3Dだからやらなきゃ損に誤変換した悲劇だ)だしなぁ。冒頭の逃走劇は意外と嫌いじゃないのだが。

屍者の劇場

アニメ版「屍者の帝国」感想(ネタバレあり)

 何にでも文句を付けるめんどっちぃ狂信者オタクとして観に行って参りました、ルルォジェクトの第一弾。一番嫌な予感がする虐殺が止まりそうで「止まれー!!」と言っていたくせに「え、と、とまった・・・?」と困惑している酷い恥知らずな俺のことは置いておき、まだ一番安全パイっぽそうなコレが一番槍となりました。
結論から言うと「意外にも前半は原作厨でさえ結構肯定できる映画」「ただ後半の大ネタと演出、主軸はかなり燃やしたい」「足し算して総合値にすると、擁護すればいいのか火炎放射器で焼き払えばいいのか相当迷う」という映画でした。全否定案件じゃないだけむしろ高評をすべきなのかもしれませんが。
 とか何とか言いつつ途中どうしてもおしっこ我慢できなくなってエジソンが出てくる場面だけすっぽり見落としてしまっているので、何か間違えていたらごめんなさい。



・映画としての冒頭の姿勢
 そもそも映画と小説では、流れる時間が違う。
 映画は、その全てが5時間や三部作や指輪物語エクステンテッドエディションを採用しているわけではないように、普通は2時間の前後を目安としてどう収まるか、その時間をどう取り回すか、を脊椎として構成されることになる。映画は時間に支配されたメディア、少なくとも小説よりはシビアな支配を受けているメディアだ。屍者は三作(GOP入れて四作)の中でも特に作中経過時間が長いと思われる作品であり、そのまま映画化というのはもちろん無理だ。そこが改変のスタート地点となるが、それは単に「要素を削る」だけでなく「その時間内で観客を惹き付け物語を動かす」ためという意味も持つ。
 冒頭の改変、これはそのまま作品全体の改変になっているが、これは俺意外と上手いと思ったのだ。これは原作と違っていきますよ、と冒頭から分かりやすく宣言してくれているし、かつ映像で「この世界ではこーゆー感じの技術があってですね、こーやってフランケンを造るんですよ」というポイントを原作とは異なる演出で魅せてくれる(説明ナレが多くならざるを得ない、という点は個人的に気になるが)。何より解析機関がガシャガシャ動き、すっごい豪快な侵襲ジャックイン技術(コネクタ着けてやれよ!wとツッコミたくなる一方で面白いアイデアだとも思う)が映像として暴れる。それと並行してウォルシンガム機関の接触がスムーズに図られ、ワトスン君の強い動機が垣間見える。導入としてこの流れはなかなか悪くない。
 ワトスン君の動機、というのもフックとして優位だ。2時間の映画というとやはりどうしてもキャラの動機や魅力に牽引力があった方が観客を惹きやすいのだろう、その点でワトスン君というキャラクターが改変されたこと、またそれが冒頭から一貫して描写されることは、原作厨としても意外とすんなり了解が行くものだ。もっともその動機というのが問題なんだが・・・これは後にしよう。


・美術と描写の美しさ
 たぶんアニメ屍者最大の武器が美術だろう。背景の、風景の美しさ。(終盤はちょっとアレだが)炸裂する蒸気機関技術の描写。いやーなんか大文字のスチームパンク(それも「サイバーパンク流行ってる隣で俺ら19世紀ファンタジーガハハ」という原義ではなく、「スチームって書いてあるんだから蒸気技術マストだろ」っていう方向のアレだ)ってスチームボーイ以来じゃないか(解析機関や屍者に萌えつつ)。インド〜アフガンの風景は本当に「これで映画チケット代金のうち半分ぐらいモト取れる」っていうぐらい必見です。アフガンは特に(時間の厳しいメディアだっつってんのに)わざわざ遠路だらだらシークェンスを忘れず入れており、フライデーお花事件までガッツリ乗せてくる豪華さで笑いが出る。はしょってる中でもなんとか意外と原作の細かい部分を拾おうと踏ん張っている。実は俺、個人的に原作でもアフガンだらだら紀行の部分は好きだったので、ここが時間を押し潰してまで残されたのはかなり嬉しい。屍者のダラダラした戦場と新型屍者(高性能過ぎて笑ったが、MUSOUKENを考えるとこれでも間違いじゃないのかな)のコントラスト。またそれら爆弾屍体や新型がワトスン一行に結構激しく襲いかかるという変更も、映画序盤の見所アクションシーンとして良い感じだ。まぁインド戦がなんかポール”ダメな方”アンダーソンがゲーム脳全開で撮った感じのイベント戦闘っぽいのは気になるが。
 日本に行くとこれがまた一気に色彩が変わり、浮世絵を頑張ってアニメに落とし込んだかのような雰囲気となってなかなか魅力がある。スモウとか「それ必要な改変か?」とツッコミつつも憎めない。大里科学のMUSOUKENが微妙な忍殺アトモスフィア(日本その3)になってて笑わせてくる、かと思いきや、直後の即身仏演算フランケンと解析機関という衝撃の映像で萌え燃え。いやあの俺、ここまで散々時間がー時間ガーって書いて来たように「尺的に日本とか削るんじゃねぇか」と思ってたんで、ここまで”””攻めの姿勢”””でアニメ・画にしてくれると思わなかったんですよ。これは嬉しい誤算。流石にエンペラー云々は出なかったがな!まぁそこはいいだろう!
 正直言って、アニメ版屍者はこういった描写、インド・アフガン・日本のアニメとしての画がこうやって立ち現れている三点に於いて、完全に存在意義があったと思う。
 もっとも、存在意義があれば何が存在しても良い、というわけではないのだが。


・クラソートキンの意味、カラマーゾフの演技
 話をアフガンまで戻すと、まず観客はクラソートキンの外観に少し戸惑う。元々若めのキャラクターだったとは思うのだが、この映画では「・・・なんかフライデーとキャラデザ被ってない?」という感じだ。
 しかし、この重複が実は意味のある物だったと、後に観客は思い知らされることになる(ジャック・ハンマー→ハンマーって範馬かよ!!的な意味だが。それともウテナの馬宮か)。それがこの作品に対してのやり方として上手いかっていうと気になるにせよ。
 「人は物語によってのみ情報を伝達し理解しうる」という根幹は原作から変わっていない。けれども、このアニメ版ではワトスン君の動機が変わっている。それ故に(カラマーゾフとしても映画の構成としても)彼に伝える情報もまた原作から変わった。ワトスン君がやりたいことは何なのか。友人としてのフライデーとはどのような存在なのか。そこでの鏡映しとして要請されたクラソートキンのキャラデザと末路。
 二人ともやんのかよそれ!っていう点は、むしろこの映画にとって大いに重要な点ではあった。あのラストのために二人ともやらなくてはならない。もしここで原作通りだったら、巡り巡ってワトスン君のこの時点での状態を肯定することにもなりかねまい。ここでは「人に物語を伝える」の、「どうやって物語を伝えるのか(演出や手つき」の部分にも関わる。二人の表情、ミキシンさんの演技。それらは原作では有り得ず、もっと言えば円城塔伊藤計劃もやらない演出だ。やらないのにやったのは原作レイプではないか、という見方もナシではないが、ここ(まで)は映画オリジナル要素として、ひとつ肯定的に観れる。好き嫌いはもちろんあるにせよ。


・ワトフラを「使って」いいのか、という問題について
 しかし日本編のラスト、ザ・ワンの到来がどうにも唐突である。もうちょっとこう、伏線とかなんとかなかったのか。あと服装センスが微妙だ。
 さておき、日本編のワトスン君お前この忙しいときに何やってんだ感→からのアメリカ大騒動、はこの映画の主軸となっており、改変(というかほとんど完全新作)としても一番大きい所だ。いや改変すんのは別に良いのだが・・・ここから狂信者的には雲行きが怪しくなってしまう。
 以下は原作既読者、またある程度の伊藤計劃ファンであることを前提とした書き方になる。
 映画版がワトスン君とフライデーのBLモノである、という点は冒頭から十分に説明されており、その点についてこのタイミングでとやかくいうのは手遅れというか筋違いではある。しかし、しかしだ、その真髄が台詞として、ダイアローグとして明確に表現される地下水道のシーケンスはやはり屈指の問題なのだ。二人の関係性の「元ネタ」が「例の件」なのが絶対によろしくない。これは同性なのが問題なのではなく(そんなのは別に何の問題でもない)、実質的に”生モノ”なのが問題なのでも・・・あーいや一応そこも問題といえばそうなのだがさておき(←)、例の件をこういう物語として消費してしまうことそのものの問題だ。信者の俺が言うなという部分ではあるにせよ。この件は原作のラストのフライデーの独白が「上限」であり「最大唯一の特権的例外」ではなかろうか。外野が、という言い方見方はたいへん不適切なのだが、しかしそれでも外野がやっちゃいけないことではないか、という疑念は拭えないのだ。
 これが、とりあえずはこの映画最大の問題点であろう。それは俺という狂信者個人の感想です、で良いのだろうか。俺が単に過激派なだけであろうか。そういうことならそれでよい(それとも、原理的にそうでしかありえない)のだが・・・。


・最後の大ネタと演出
 問題は他にもある。映画ではザ・ワンの陰謀をMが圧迫して手記を奪い取り、代わりに自身の遠大な野望を成し遂げようと動き出す——の野望の内容が全人類の屍者化=意識の消去である。ハーモニーじゃん、という点でもちょっとアレなのだが、なんか・・・なんか安っぽい。いやこれこそ「お前個人の感想だろ」なので本当は構わないんだが、なんだろうこのモニョモニョする感覚は。ミァハ様が同じことやってるぶんにはシリアスで切実な話だったのに、Mがやるとなんかエヴァ雨後の竹の子補完計画的な空気が漂う。何故だ・・・。対するワトスン君の言い分もなんかこうありきたりというか「魂は大切です」とルルォジェクト作品内で「そのまま」言われるのはなんとなくなぁ。実際は原作もその骨子は変わらないのだが、こういうところこそが作家の手つきや気運の出る問題なのだろう。魂は大切ですということ自体は言って構わん。言い方の問題だ。揚げ足取りと言われればそれまでなのだが、原作だとザ・ワンがこの件についてことばと立場を慎重に選んだかのような回りくどい言い回しをしているし、またそれはザ・ワンという老練なキャラクターならそう言うだろう、という説得力があった。こっちのMにはやや乏しい。
 後半の演出も気になる。再現された原作の謎棒線なんかは別に良いんだが、ハダリーボイスのどう見てもサイコフレーム発光にしか見えない演出は・・・うーん、これも俺の好みの問題かのう。21グラム株菌(違)が口からエクトプラズムしたり大増産されたりするのも絵面として辛みがある(こっちはちょっと好みの問題じゃないぞい!と強弁したいレベル)。バベッジメタトロン発光線もどうなんだろう。なんとなくこのあたりは90年代感があるようなないような。
 あとこれも細かいところなんですが、フライデー乗っ取りって(あのザ・ワンの陰謀にとって)必要だったんですかね。やっぱ肉体がもう結構ガタ来てたとかか。ハダリーを花嫁の器に、という点は「いや謎棒線とかやってるんだから、原作通り肉体も作れるのでは?」vs「魂のない人造人間、魂を擬似的に降ろす屍者、という流れから考えればこれでおk」が後者有利で割と押し切り納得いくんですが。ううん、やっぱり若くてメンテの行き届いた肉体の方がよかったのかな爺さん。ハダリー黒化は、演出としてベタベタ過ぎる気もするのだが、じゃあアレ以外にどう描写するよ?っていうとまぁアレでいいのか。ここは別に目くじらを立てる部分では全く無い。
 あとバーナビー前に大変クラシカルなフランケンが登場したの、ほとんど「好きとか嫌いとか〜♪」レベルのタイミングと破壊力でワロタ。いや破壊力同じでも滑って横の壁爆破してる感はありますが、どうも憎めない。ハハハこやつめ的な。


・ラストについて
 原作を読んでいれば追いつける(言い換えると原作未読の方には分かりづらいということでもあり、そこは失点ではないかとも思うが)内容の映画だった本作だが、ラストだけは流石に原作派も困惑するような難解さが唐突に現れる。一見すると原作とやっていることは同じっぽいが、そちらは株菌Xに関する流れがあった上での選択だった。さっき書き忘れたが、アニメでは原作の株菌X要素はゴッソリ削られている。そのあたりの具体的な解説は映画にしづらいので、悲しいながらもしょうがないとは思うが(また、それでも一応映像にした結果が21グラム株菌お口からバーゲンの惨劇でもあるわけだし)。それがなくなった上でのアレは、どのような意味を持つのか。いや実際は答えらしきものが明かされているのだが(フライデーのモノローグで「こちらの地平に姿を現さない」と言っており、逆説的にそれが目的だったと解釈できる。まぁこの台詞なしでもそう解釈するしかない感もある)、それで本当にあっているか?というのは自信がない。俺なんか見落としたかなぁ。トイレ行ってて見逃したエジソン回りの所になんかあったかなぁ。


・総評としてはどうなのか
 何度でも言うが、このアニメ・映画は本当に背景やガジェットの美しさは必見なのだ。原作云々抜きにしてさえ「うおおおお、なんか久々に架空19世紀とか美しい自然とかを大スクリーンアニメで観たぞ」とお得感が溢れる。しかし、それだけで全部を肯定する訳にもいかないのがこの映画のやっかいな所だ。問題点が後半に集中しているように書いてきたが、実際は作品全体に問題点が敷き詰められており、それが表面化するのが後半っぽい、という感じだろうか。なおパンフレットによると後半はちょっと制作スケジュールが厳しかったようなのだが、実際の映画ではそういった点での問題は無いように観えた。あくまで骨子側の問題だと感じる。
 例え原作と著しく乖離していたとしても、映画として面白ければ構わない。そういうスタンスで観に行ったつもりだったのだが、まさかワトフラの問題がここまでやっかいだとは思わなかった。ううん、ううん、と唸っている。Mの野望(の語り方)も個人的にはかなり辛い。良いところも悪いところもある映画、というのは悪いところしかない映画より遙かに素晴らしい。ただ、その素晴らしさにどこまで甘えられるかは別問題なのだ。


・その他
■ウォルシンガムの眼鏡っ娘秘書、実はマニーペニーで桑島ボイスって一体なんなんだ。どうしてそんなに業火(豪華を通り越している)なんだ。これってガンダムでたまに起きる「妙に気合いの入って可愛いモブ娘枠」なんでしょうけど(ケルゲレン子やアーミア・リーのことだ)。ちなみに生きてるときも屍者になったときも可愛いのだが、屍者からあっさり蘇るのはネクロテック派として如何なのかしらん(←
■はなざーハダリーも原作から改変というか、え?そこでグラント閣下を裏切るの?いやここってどういう流れでどういう側面からの裏切りになるの?とちょっと混乱した俺。アレっすかね、やっぱ俺がトイレ行ってる間(エジソンとノーチラス登場見逃したんだよおおおおでもこれ二回観るのちょっとおおおおお)になんかその辺ありましたか。あとロボットだって話、いや「未来のイブ」で人造人間だろって話ではあるんですけど、原作(屍者の方な)で人造人間ですって明言された箇所あったっけ。何故か計算者ですってことで押し通してたよな(もしかしたら円城先生的には「屍者はともかく、ゼロベースな人造人間はちょっと19世紀には」という観点があったのかしらん。21グラム減ると困る、と仰っていたようにそういう部分が気になったのではないか感があるのだが)。
■あとはなざーハダリーさん、ハダリーボイス攻撃能力(特に効果範囲)が著しく弱体化しており、それで余ったポイントを巨乳化と格闘に振っておる。何故そんなことを・・・。フライデーを抑えられない程度の筋力→からの超絶空中回転回し蹴りから漂う謎の筋肉ステータスに、「その胸は豊満であった」と忍殺ナレーションを入れざるをえないやたらめったな巨乳強調。いや俺巨乳大好きですけどね、なんというか「あの、屍者の帝国でそんな巨乳やっている暇が・・・?」という感じがふわふわとする。これは「屍者は崇高な物語だからそんな卑猥な巨乳なぞ」という意味ではなく、演出や画として「そこ巨乳が邪魔で本筋が頭に入らないんじゃ・・・そういうアナログハックはやめておくれ・・・その輝きはワシには眩しすぎる・・・(ラピュタの炭坑内で飛行石に手を伸ばし恥じ入るおじいちゃんの顔で)」という意味である。
■上の本文では褒めたが、やっぱりあのブスリ頸椎ジャックイン、なんかプラグ着けた方がいいんじゃないか。最初の施術としてああなるのは(合理性はともかく、アニメの画・演出として)グロテスクさがあって素晴らしいのだが、その後のメンテやハッキングでもぐちょぐちょブスッ!なのは笑ったぞい。屍体だから感染症はマジ気にしなくてよいのだろうが、腐敗はどうなんだ。
ツイッター上でもどなたかが言っておられましたが、「下着ではないから恥ずかしくない」と山澤さんスーパー殺陣はちゃんとアニメになっていてほっこりする。しかしドアは斬ってくれ頼むから。あと山澤さん、眉とか「あ、最後のあの時もご健在・ご健闘されてましたか」とか色々面白すぎる。

以上レポでした。