伊藤計劃作品とは何だったのか

俺にとっての

 劇場版虐殺器官が大変辛く(これでも劇モニーよりマシっていうのがまた辛いんだが)、感想を書く気にもなれないので、代わりに自分が何に対して不快感を覚えたのか、そもそも自分にとっての伊藤計劃作品とはなんだったのかを備忘録的に書いておきますです。


 なんとか手短にまとめますが、自分にとってその魅力は「見たいものの範囲の広さ」と「伝え方の妙」でした。人は見たい物しか見ない、ヴィクトリア湖のイルカなんか興味無いだろ、って話を書く人間は、逆説的にヴィクトリア湖がどうなっているか見たがっていたし知っていた、ということになります。伊藤計劃氏とはそういう人、前島賢氏の言葉を借りれば「文芸サークルの理想の先輩」でした。イデオローグ、って書いても良いけどもうちょっともっさりしたこの言い方が良い(何)。


 あの先輩なんか無駄に色々知ってるぜ! 映画も詳しい、小島ゲームにも詳しい、軍事にも詳しい、サイバーパンクにも詳しい。洋楽にも詳しいしアメコミや美術も詳しい、確か冒険小説にも詳しいし、最近ポッと出の変な先端科学もなんか良く言ってるよね、という。弐位相でGoogle無き先史に於けるクライトンの立ち位置の話題がありましたが、GoogleWikipediaAmazonに覆われたこの最近では、「じゃあ何をググるのか」という興味・見たいものに対する範囲とバイアスが重要視される。そういう時、あのサークルの先輩の影響で〜というような意味で、あのサイトやブログや諸作には奇妙な重力がありました。


 多義的というか多面的な作品……というと陳腐な言い方ですが、そこには読者が知らなかった事象への興味を呼び覚ましてくれる部分があるし、逆にジャンル読者が求めていた要素があった。虐殺器官なら「かっちょいい近未来特殊部隊がバスバス殺しまくるのをディテール豊かに描く話」でもあるし、「人間や社会の持つ隠された仕組みが科学によって暴かれ、それにより不可避の大事件が起こるSF」でもあるし、「ゼロ年代の世界情勢から想定され得た悲惨な国際情勢」でもあるし、「マザコンの童貞が横恋慕する話」でもあるわけです。どれか一つの要素が好きならヒットするし、異なる要素に「えっ待ってそんなのあんの」と驚き興味が湧くのもあるでしょう。そういうのが魅力の前半だということです。


 もう一つの魅力が、その内容を具体的にどう伝えるか、という伝え方です。単純にディテール面でのクオリティが高い、文章が読みやすい、というのも大きいですが、語り手そのものが魅力的であった、というのも見逃せません。だってお前アレぞ、バスバス殺しまくるSF特殊部隊の主人公がマザコンの30代童貞だぞ。そんなんで話が成立するのか……というとき、ガッツリ成立してしまったという脅威と、この童貞野郎が妙に卑近で親しみやすい、それが内容への距離を縮めてくれる(けれどももしかしたらこの語り手は嘘つきかもしれない、という緊迫感や不安感が妖しく光っている)。それはキャラクターの魅力と言っても良いが、見せ方の技法の魅力とも言えましょう。そんな技があんのかよ&技のレベル自体も高いぞ、という。


 サークル先輩論に戻っていえば、部室でダラダラつまらん話をされても困るわけで、その「つまらん」とは内容かもしれないが、もしかしたら本人の話し方かもしれない。そう考えたとき、この人の話し方は面白い、というのは有力な魅力に他なりません。端的に言えば、伊藤計劃は入力が広く、出力が上手かった。これに尽きます。それ自体は伊藤計劃氏に限らず、ありとあらゆるクリエイターに通ずる普遍的な話題かもしれませんし、その中でトップだったとかは言いません。ただ、入力の広さで引っかけられ、出力の上手さに当たった、そういう読者が一定数(相当数?)いたことは事実であり、「当たり前の事実」ではなく「特筆して良い事実」だとは思います。


 各劇場版について共通する残念さは、「何を出力するか(≒何を入力していたか)についての取捨選択が、原作ファン的にはいささか〜かなり問題があったこと」「出力の技が割と下手なこと」の二点です。信者ながら踏み絵をガンガンストンピングする気で擁護すれば、前者はまぁ……いややっぱ全然良くねぇんですが(踏み絵ガンガン)、後者が解決できていれば、まだ原作信者と新規ファンの宗教戦争ガハハってバカ笑いして水に流すこともできましょう(水道管詰まって破裂するけど)。

 ただ、現実はそうではなかった。映画として端的に面白くなかった。俺が妙に劇者の帝国を擁護したがるのは、アニメとして映画として、「あっアフガンの風景と空気感素敵」「日本編ガハハ!」ってフックとなる技があるからです。しかし擁護にも限度がある。劇者だって技の下手な箇所はあったし、やっぱその入力カットすんなよっていうのは大きい。俺だって後半〜ラストはどうかと思いますし、冒頭改変は(過去のブログではやたら擁護しましたが)非難されてもやむなし、だとは思ってます。
 これがハーモニーだと「途中まで入力大丈夫ってか原作まんま……はぁあああ”愛してる”ぅぅぅ!?」なのと、技が徹頭徹尾ド下手なので、擁護が出来ないのです……。
 劇殺器官は三作の中では技の平均点が比較的高かったんですが、個技それぞれを見ていると妙に下手な部分も多く、また重要な入力だった母と屍者の国(あとライアンとホーリーグレイル)のカットは、虐殺器官の本質の何割かを喪っています。


 せっかくなんで余談も書いておきます。
 俺が初めて伊藤計劃作品に出会ったのは、中期〜後期スプークテールからだったと記憶しています。そこからブログ弐位相になり、途中なんか小説を書いてるらしい(マジで!?!)→落選したらしい→なんか復活したらしい(ナンデ!?!?)、という流れを見てきた。そうして実際に、本となった虐殺器官を初めて手に取ったときの印象は「あっ、いつもの伊藤計劃さんだ」でした。実家に帰ってきたような安心感っていうと変ですが、いつも見ているサイト/ブログの人が、いつもの調子で小説まで書いてしまった。そこに仕込まれた小説ならではの部分やレベルには心底ビビリましたしクソ楽しかったんですが、本質的な感想は「安心感」だったのです。ラストにはちょっと驚いたんですが、だんだん「何故驚いた、何に驚いた」と奇妙な感覚が湧いてきて、後になって大嘘説を知った時は「ああ、なんだ、驚く必要は無かったんだ。安心し続けていてよかったんだ」とホッとしてしまいました(ちなみに自力で大嘘説にたどり着けなかったのはちょっとした屈辱なんだZE!)。


 だから、「死者の国にいると落ち着く」という感覚は、変な意味で他人事ではなかったのでした。


一日経ってから思い出した補足

 そういえば今更思い出したんで追記するんですが、個人的に伊藤計劃作品(これはブログじゃなくて作品の方ですね)でもう一個好きなポイントがあって、それは何かというと人間はズタズタに解体できてしまうんだ、という視座だったりする。なんかサイコパスっぽい書き方ですが別にバラバラ殺人がしたいわけではなく、人間って機械であり動物なんだ、手を加えることの出来るシステムなんだ、という見方が衝撃的だったのです。人間というシステムは決して神聖でも不可侵でもなく、科学の発達によりいくらでも解体することができる。感動も感情も調理台の上に載せてバラバラにすることができる。そこにはこう、変な感想ですが、妙に不謹慎なワクワク感を感じたのでした。