スイス・アーミー・マンのネタバレ感想

優しさと真摯さについて

 バットマン・リターンズのラスト。死んだペンギン(人間の方)にペンギン達(鳥類の方)が寄り添い、彼の亡骸をどこへともなく葬送していく。ペンギン(人間の方)はその直前、バットマンの命を道連れにしようとしたものの、武器の傘を間違えるという痛恨とシュールに苛まれて死んでいた。ペンギン達(鳥類の方)が人間の遺体を運ぶ姿は、笑うにはあまりにも寂しく、異様な真剣さと真摯さがあった。


 自分がスイス・アーミー・マンのラストに感じたのはそれに近い感覚だった。あるいはもっと先かもしれない。


 スイス・アーミー・マンは異常者の映画だ。ということを包み隠そうとしない。序盤から異常な映像のオンパレードであり、観客は笑いと恐怖と困惑に翻弄され続ける。流石に時が経てば経つほどダノ×ラドに感情移入するようにはなっているが、彼らが中盤やっていたことを冷静に振り返ってみると、まぁまぁアレがアレでアレな、ストーカーというかアレなアレであることは自明だ。終盤はまさにそのことを突きつける展開であるし、その際の画と演出は、ほとんどホラー映画かネット怪談のありさまである(メキシコの人形島か、ハーンの「ジゴク・プリフェクチュア」かと思ったぞ)。ハンクという人物像に関しても、単にそれらしい単語を使わず暗示に留めているというだけで、実際は相当辛い話をしている。母親のくだりや「低脳」ということばの扱いは、本当にオブラートに包めていると言えるだろうか。
 けれどもそういう容赦のなさは、裏返しでさえなく、この映画の真摯さと真剣さの顕れなのだろうと感じられる。もはやマイノリティでさえない、フリークスという立ち位置の扱い。周囲に理解がないだけ、貴方はそのままでいい、と言えないし言いようがない臨界点。そこでは「現実」という手垢のついた言葉は、実はあまり意味を成さない。「現実は厳しい」? そうではない、「貴方の脳内が厳しい」だけ。それだけである。現実は何も厳しくないし間違ってなんかいない。この世で本当に辛いのは、救いがもたらされないことではなく、ぶっちゃけこれ救わない方がいいよね・・・という事案が実在してしまうことにある。「どこでも自由にオナラすればいい」? おい頭冷やせ。オナラだぞ、オナラ。
 この映画の凄まじいところは、そこで頭を限界まで冷却した上でオナラしてくることである。下手な比喩や言い訳はしない。ストレートにオナラぶっ放す。救わない方がよさそうな事案を、しれっと映してしまう。それは映さないこと、デフォルメして映すことよりもよっぽど真摯だ。いやギャグとしてデフォルメはしてるんですけど、なんというか、スイス・アーミー・マンの下ネタは「レスリー・ニールセン2001年宇宙への旅」やオースティン・パワーズとは意味合いが全く違う気がする(比較対象が変ですみません)。なんというんだろう、こう、介護現場だとどうしても排泄や勃起を見なきゃダメだよね、というような切迫感というか。


 そういう真摯さと優しさ(a.k.a野蛮さ)の頂点として、ラストにマスコミが出てくるし、登場人物が何故か一堂に会するのだ。
 最初、それらはフリークスが晒し者にされるという悲劇、見ているのが辛くなる恥の場面として描かれる(ように見える)。今までの異常友情物語に圧倒されて忘れてたけど、そっかダノたんどうしようもなくヤベー奴ですよね・・・そうですよね・・・と気付かされる。どうしようもなく辛く苦しい場面。
 かと思いきや、突如としてラドクリフはオナラをする。そしてあのラストになる。あのラストを、登場人物が全員目撃して、さらにご丁寧にもマスコミのビデオカメラが映してしまう。それがどういう意味か、考えただけで身震いがする。
 あのオナラが無ければ、この映画は、ハタから(周囲登場人物から)見れば単に精神異常者の謎犯罪にしか見えなかっただろう。でも現実は違う。そう、「現実」は違う。あのラストシーンは全ての登場人物から、誤解というか解釈するチャンスを一瞬とはいえ奪ってしまう。えっこれダノたんの脳内妄想じゃないの?これ・・・現実なの???という、ほとんど暴力。現実は何も厳しくないし間違ってなんかいない。「貴方達の脳内が理解できない怪現象が発生してしまった」だけ。それだけである。マスコミのビデオカメラという「物的証拠」が残ることにより、この惨劇はその強度をいや増す。


 ハンクは一人じゃない。ひとりじゃなかったという現実が、登場人物達全員に押しつけられてしまう。彼らに逃げ場はない。ただそこにある(あった)という現実を理解させてしまう暴行。
 それはただの相互理解(フリークスと一般人も共存できますよ〜)や、誤解(フリークスは脳内ヤバいですね〜)よりも、はるかに優しくて理性的だと思う。ただそこにフリークスがいて、ひとりではなく、彼らが生きて生活できる時と場所が実在した、ということ。ただ傍に実在できるということは、ある意味分かり合うことよりも真摯で真面目なのだ。