屍者の劇場

アニメ版「屍者の帝国」感想(ネタバレあり)

 何にでも文句を付けるめんどっちぃ狂信者オタクとして観に行って参りました、ルルォジェクトの第一弾。一番嫌な予感がする虐殺が止まりそうで「止まれー!!」と言っていたくせに「え、と、とまった・・・?」と困惑している酷い恥知らずな俺のことは置いておき、まだ一番安全パイっぽそうなコレが一番槍となりました。
結論から言うと「意外にも前半は原作厨でさえ結構肯定できる映画」「ただ後半の大ネタと演出、主軸はかなり燃やしたい」「足し算して総合値にすると、擁護すればいいのか火炎放射器で焼き払えばいいのか相当迷う」という映画でした。全否定案件じゃないだけむしろ高評をすべきなのかもしれませんが。
 とか何とか言いつつ途中どうしてもおしっこ我慢できなくなってエジソンが出てくる場面だけすっぽり見落としてしまっているので、何か間違えていたらごめんなさい。



・映画としての冒頭の姿勢
 そもそも映画と小説では、流れる時間が違う。
 映画は、その全てが5時間や三部作や指輪物語エクステンテッドエディションを採用しているわけではないように、普通は2時間の前後を目安としてどう収まるか、その時間をどう取り回すか、を脊椎として構成されることになる。映画は時間に支配されたメディア、少なくとも小説よりはシビアな支配を受けているメディアだ。屍者は三作(GOP入れて四作)の中でも特に作中経過時間が長いと思われる作品であり、そのまま映画化というのはもちろん無理だ。そこが改変のスタート地点となるが、それは単に「要素を削る」だけでなく「その時間内で観客を惹き付け物語を動かす」ためという意味も持つ。
 冒頭の改変、これはそのまま作品全体の改変になっているが、これは俺意外と上手いと思ったのだ。これは原作と違っていきますよ、と冒頭から分かりやすく宣言してくれているし、かつ映像で「この世界ではこーゆー感じの技術があってですね、こーやってフランケンを造るんですよ」というポイントを原作とは異なる演出で魅せてくれる(説明ナレが多くならざるを得ない、という点は個人的に気になるが)。何より解析機関がガシャガシャ動き、すっごい豪快な侵襲ジャックイン技術(コネクタ着けてやれよ!wとツッコミたくなる一方で面白いアイデアだとも思う)が映像として暴れる。それと並行してウォルシンガム機関の接触がスムーズに図られ、ワトスン君の強い動機が垣間見える。導入としてこの流れはなかなか悪くない。
 ワトスン君の動機、というのもフックとして優位だ。2時間の映画というとやはりどうしてもキャラの動機や魅力に牽引力があった方が観客を惹きやすいのだろう、その点でワトスン君というキャラクターが改変されたこと、またそれが冒頭から一貫して描写されることは、原作厨としても意外とすんなり了解が行くものだ。もっともその動機というのが問題なんだが・・・これは後にしよう。


・美術と描写の美しさ
 たぶんアニメ屍者最大の武器が美術だろう。背景の、風景の美しさ。(終盤はちょっとアレだが)炸裂する蒸気機関技術の描写。いやーなんか大文字のスチームパンク(それも「サイバーパンク流行ってる隣で俺ら19世紀ファンタジーガハハ」という原義ではなく、「スチームって書いてあるんだから蒸気技術マストだろ」っていう方向のアレだ)ってスチームボーイ以来じゃないか(解析機関や屍者に萌えつつ)。インド〜アフガンの風景は本当に「これで映画チケット代金のうち半分ぐらいモト取れる」っていうぐらい必見です。アフガンは特に(時間の厳しいメディアだっつってんのに)わざわざ遠路だらだらシークェンスを忘れず入れており、フライデーお花事件までガッツリ乗せてくる豪華さで笑いが出る。はしょってる中でもなんとか意外と原作の細かい部分を拾おうと踏ん張っている。実は俺、個人的に原作でもアフガンだらだら紀行の部分は好きだったので、ここが時間を押し潰してまで残されたのはかなり嬉しい。屍者のダラダラした戦場と新型屍者(高性能過ぎて笑ったが、MUSOUKENを考えるとこれでも間違いじゃないのかな)のコントラスト。またそれら爆弾屍体や新型がワトスン一行に結構激しく襲いかかるという変更も、映画序盤の見所アクションシーンとして良い感じだ。まぁインド戦がなんかポール”ダメな方”アンダーソンがゲーム脳全開で撮った感じのイベント戦闘っぽいのは気になるが。
 日本に行くとこれがまた一気に色彩が変わり、浮世絵を頑張ってアニメに落とし込んだかのような雰囲気となってなかなか魅力がある。スモウとか「それ必要な改変か?」とツッコミつつも憎めない。大里科学のMUSOUKENが微妙な忍殺アトモスフィア(日本その3)になってて笑わせてくる、かと思いきや、直後の即身仏演算フランケンと解析機関という衝撃の映像で萌え燃え。いやあの俺、ここまで散々時間がー時間ガーって書いて来たように「尺的に日本とか削るんじゃねぇか」と思ってたんで、ここまで”””攻めの姿勢”””でアニメ・画にしてくれると思わなかったんですよ。これは嬉しい誤算。流石にエンペラー云々は出なかったがな!まぁそこはいいだろう!
 正直言って、アニメ版屍者はこういった描写、インド・アフガン・日本のアニメとしての画がこうやって立ち現れている三点に於いて、完全に存在意義があったと思う。
 もっとも、存在意義があれば何が存在しても良い、というわけではないのだが。


・クラソートキンの意味、カラマーゾフの演技
 話をアフガンまで戻すと、まず観客はクラソートキンの外観に少し戸惑う。元々若めのキャラクターだったとは思うのだが、この映画では「・・・なんかフライデーとキャラデザ被ってない?」という感じだ。
 しかし、この重複が実は意味のある物だったと、後に観客は思い知らされることになる(ジャック・ハンマー→ハンマーって範馬かよ!!的な意味だが。それともウテナの馬宮か)。それがこの作品に対してのやり方として上手いかっていうと気になるにせよ。
 「人は物語によってのみ情報を伝達し理解しうる」という根幹は原作から変わっていない。けれども、このアニメ版ではワトスン君の動機が変わっている。それ故に(カラマーゾフとしても映画の構成としても)彼に伝える情報もまた原作から変わった。ワトスン君がやりたいことは何なのか。友人としてのフライデーとはどのような存在なのか。そこでの鏡映しとして要請されたクラソートキンのキャラデザと末路。
 二人ともやんのかよそれ!っていう点は、むしろこの映画にとって大いに重要な点ではあった。あのラストのために二人ともやらなくてはならない。もしここで原作通りだったら、巡り巡ってワトスン君のこの時点での状態を肯定することにもなりかねまい。ここでは「人に物語を伝える」の、「どうやって物語を伝えるのか(演出や手つき」の部分にも関わる。二人の表情、ミキシンさんの演技。それらは原作では有り得ず、もっと言えば円城塔伊藤計劃もやらない演出だ。やらないのにやったのは原作レイプではないか、という見方もナシではないが、ここ(まで)は映画オリジナル要素として、ひとつ肯定的に観れる。好き嫌いはもちろんあるにせよ。


・ワトフラを「使って」いいのか、という問題について
 しかし日本編のラスト、ザ・ワンの到来がどうにも唐突である。もうちょっとこう、伏線とかなんとかなかったのか。あと服装センスが微妙だ。
 さておき、日本編のワトスン君お前この忙しいときに何やってんだ感→からのアメリカ大騒動、はこの映画の主軸となっており、改変(というかほとんど完全新作)としても一番大きい所だ。いや改変すんのは別に良いのだが・・・ここから狂信者的には雲行きが怪しくなってしまう。
 以下は原作既読者、またある程度の伊藤計劃ファンであることを前提とした書き方になる。
 映画版がワトスン君とフライデーのBLモノである、という点は冒頭から十分に説明されており、その点についてこのタイミングでとやかくいうのは手遅れというか筋違いではある。しかし、しかしだ、その真髄が台詞として、ダイアローグとして明確に表現される地下水道のシーケンスはやはり屈指の問題なのだ。二人の関係性の「元ネタ」が「例の件」なのが絶対によろしくない。これは同性なのが問題なのではなく(そんなのは別に何の問題でもない)、実質的に”生モノ”なのが問題なのでも・・・あーいや一応そこも問題といえばそうなのだがさておき(←)、例の件をこういう物語として消費してしまうことそのものの問題だ。信者の俺が言うなという部分ではあるにせよ。この件は原作のラストのフライデーの独白が「上限」であり「最大唯一の特権的例外」ではなかろうか。外野が、という言い方見方はたいへん不適切なのだが、しかしそれでも外野がやっちゃいけないことではないか、という疑念は拭えないのだ。
 これが、とりあえずはこの映画最大の問題点であろう。それは俺という狂信者個人の感想です、で良いのだろうか。俺が単に過激派なだけであろうか。そういうことならそれでよい(それとも、原理的にそうでしかありえない)のだが・・・。


・最後の大ネタと演出
 問題は他にもある。映画ではザ・ワンの陰謀をMが圧迫して手記を奪い取り、代わりに自身の遠大な野望を成し遂げようと動き出す——の野望の内容が全人類の屍者化=意識の消去である。ハーモニーじゃん、という点でもちょっとアレなのだが、なんか・・・なんか安っぽい。いやこれこそ「お前個人の感想だろ」なので本当は構わないんだが、なんだろうこのモニョモニョする感覚は。ミァハ様が同じことやってるぶんにはシリアスで切実な話だったのに、Mがやるとなんかエヴァ雨後の竹の子補完計画的な空気が漂う。何故だ・・・。対するワトスン君の言い分もなんかこうありきたりというか「魂は大切です」とルルォジェクト作品内で「そのまま」言われるのはなんとなくなぁ。実際は原作もその骨子は変わらないのだが、こういうところこそが作家の手つきや気運の出る問題なのだろう。魂は大切ですということ自体は言って構わん。言い方の問題だ。揚げ足取りと言われればそれまでなのだが、原作だとザ・ワンがこの件についてことばと立場を慎重に選んだかのような回りくどい言い回しをしているし、またそれはザ・ワンという老練なキャラクターならそう言うだろう、という説得力があった。こっちのMにはやや乏しい。
 後半の演出も気になる。再現された原作の謎棒線なんかは別に良いんだが、ハダリーボイスのどう見てもサイコフレーム発光にしか見えない演出は・・・うーん、これも俺の好みの問題かのう。21グラム株菌(違)が口からエクトプラズムしたり大増産されたりするのも絵面として辛みがある(こっちはちょっと好みの問題じゃないぞい!と強弁したいレベル)。バベッジメタトロン発光線もどうなんだろう。なんとなくこのあたりは90年代感があるようなないような。
 あとこれも細かいところなんですが、フライデー乗っ取りって(あのザ・ワンの陰謀にとって)必要だったんですかね。やっぱ肉体がもう結構ガタ来てたとかか。ハダリーを花嫁の器に、という点は「いや謎棒線とかやってるんだから、原作通り肉体も作れるのでは?」vs「魂のない人造人間、魂を擬似的に降ろす屍者、という流れから考えればこれでおk」が後者有利で割と押し切り納得いくんですが。ううん、やっぱり若くてメンテの行き届いた肉体の方がよかったのかな爺さん。ハダリー黒化は、演出としてベタベタ過ぎる気もするのだが、じゃあアレ以外にどう描写するよ?っていうとまぁアレでいいのか。ここは別に目くじらを立てる部分では全く無い。
 あとバーナビー前に大変クラシカルなフランケンが登場したの、ほとんど「好きとか嫌いとか〜♪」レベルのタイミングと破壊力でワロタ。いや破壊力同じでも滑って横の壁爆破してる感はありますが、どうも憎めない。ハハハこやつめ的な。


・ラストについて
 原作を読んでいれば追いつける(言い換えると原作未読の方には分かりづらいということでもあり、そこは失点ではないかとも思うが)内容の映画だった本作だが、ラストだけは流石に原作派も困惑するような難解さが唐突に現れる。一見すると原作とやっていることは同じっぽいが、そちらは株菌Xに関する流れがあった上での選択だった。さっき書き忘れたが、アニメでは原作の株菌X要素はゴッソリ削られている。そのあたりの具体的な解説は映画にしづらいので、悲しいながらもしょうがないとは思うが(また、それでも一応映像にした結果が21グラム株菌お口からバーゲンの惨劇でもあるわけだし)。それがなくなった上でのアレは、どのような意味を持つのか。いや実際は答えらしきものが明かされているのだが(フライデーのモノローグで「こちらの地平に姿を現さない」と言っており、逆説的にそれが目的だったと解釈できる。まぁこの台詞なしでもそう解釈するしかない感もある)、それで本当にあっているか?というのは自信がない。俺なんか見落としたかなぁ。トイレ行ってて見逃したエジソン回りの所になんかあったかなぁ。


・総評としてはどうなのか
 何度でも言うが、このアニメ・映画は本当に背景やガジェットの美しさは必見なのだ。原作云々抜きにしてさえ「うおおおお、なんか久々に架空19世紀とか美しい自然とかを大スクリーンアニメで観たぞ」とお得感が溢れる。しかし、それだけで全部を肯定する訳にもいかないのがこの映画のやっかいな所だ。問題点が後半に集中しているように書いてきたが、実際は作品全体に問題点が敷き詰められており、それが表面化するのが後半っぽい、という感じだろうか。なおパンフレットによると後半はちょっと制作スケジュールが厳しかったようなのだが、実際の映画ではそういった点での問題は無いように観えた。あくまで骨子側の問題だと感じる。
 例え原作と著しく乖離していたとしても、映画として面白ければ構わない。そういうスタンスで観に行ったつもりだったのだが、まさかワトフラの問題がここまでやっかいだとは思わなかった。ううん、ううん、と唸っている。Mの野望(の語り方)も個人的にはかなり辛い。良いところも悪いところもある映画、というのは悪いところしかない映画より遙かに素晴らしい。ただ、その素晴らしさにどこまで甘えられるかは別問題なのだ。


・その他
■ウォルシンガムの眼鏡っ娘秘書、実はマニーペニーで桑島ボイスって一体なんなんだ。どうしてそんなに業火(豪華を通り越している)なんだ。これってガンダムでたまに起きる「妙に気合いの入って可愛いモブ娘枠」なんでしょうけど(ケルゲレン子やアーミア・リーのことだ)。ちなみに生きてるときも屍者になったときも可愛いのだが、屍者からあっさり蘇るのはネクロテック派として如何なのかしらん(←
■はなざーハダリーも原作から改変というか、え?そこでグラント閣下を裏切るの?いやここってどういう流れでどういう側面からの裏切りになるの?とちょっと混乱した俺。アレっすかね、やっぱ俺がトイレ行ってる間(エジソンとノーチラス登場見逃したんだよおおおおでもこれ二回観るのちょっとおおおおお)になんかその辺ありましたか。あとロボットだって話、いや「未来のイブ」で人造人間だろって話ではあるんですけど、原作(屍者の方な)で人造人間ですって明言された箇所あったっけ。何故か計算者ですってことで押し通してたよな(もしかしたら円城先生的には「屍者はともかく、ゼロベースな人造人間はちょっと19世紀には」という観点があったのかしらん。21グラム減ると困る、と仰っていたようにそういう部分が気になったのではないか感があるのだが)。
■あとはなざーハダリーさん、ハダリーボイス攻撃能力(特に効果範囲)が著しく弱体化しており、それで余ったポイントを巨乳化と格闘に振っておる。何故そんなことを・・・。フライデーを抑えられない程度の筋力→からの超絶空中回転回し蹴りから漂う謎の筋肉ステータスに、「その胸は豊満であった」と忍殺ナレーションを入れざるをえないやたらめったな巨乳強調。いや俺巨乳大好きですけどね、なんというか「あの、屍者の帝国でそんな巨乳やっている暇が・・・?」という感じがふわふわとする。これは「屍者は崇高な物語だからそんな卑猥な巨乳なぞ」という意味ではなく、演出や画として「そこ巨乳が邪魔で本筋が頭に入らないんじゃ・・・そういうアナログハックはやめておくれ・・・その輝きはワシには眩しすぎる・・・(ラピュタの炭坑内で飛行石に手を伸ばし恥じ入るおじいちゃんの顔で)」という意味である。
■上の本文では褒めたが、やっぱりあのブスリ頸椎ジャックイン、なんかプラグ着けた方がいいんじゃないか。最初の施術としてああなるのは(合理性はともかく、アニメの画・演出として)グロテスクさがあって素晴らしいのだが、その後のメンテやハッキングでもぐちょぐちょブスッ!なのは笑ったぞい。屍体だから感染症はマジ気にしなくてよいのだろうが、腐敗はどうなんだ。
ツイッター上でもどなたかが言っておられましたが、「下着ではないから恥ずかしくない」と山澤さんスーパー殺陣はちゃんとアニメになっていてほっこりする。しかしドアは斬ってくれ頼むから。あと山澤さん、眉とか「あ、最後のあの時もご健在・ご健闘されてましたか」とか色々面白すぎる。

以上レポでした。