伊藤計劃作品とは何だったのか

俺にとっての

 劇場版虐殺器官が大変辛く(これでも劇モニーよりマシっていうのがまた辛いんだが)、感想を書く気にもなれないので、代わりに自分が何に対して不快感を覚えたのか、そもそも自分にとっての伊藤計劃作品とはなんだったのかを備忘録的に書いておきますです。


 なんとか手短にまとめますが、自分にとってその魅力は「見たいものの範囲の広さ」と「伝え方の妙」でした。人は見たい物しか見ない、ヴィクトリア湖のイルカなんか興味無いだろ、って話を書く人間は、逆説的にヴィクトリア湖がどうなっているか見たがっていたし知っていた、ということになります。伊藤計劃氏とはそういう人、前島賢氏の言葉を借りれば「文芸サークルの理想の先輩」でした。イデオローグ、って書いても良いけどもうちょっともっさりしたこの言い方が良い(何)。


 あの先輩なんか無駄に色々知ってるぜ! 映画も詳しい、小島ゲームにも詳しい、軍事にも詳しい、サイバーパンクにも詳しい。洋楽にも詳しいしアメコミや美術も詳しい、確か冒険小説にも詳しいし、最近ポッと出の変な先端科学もなんか良く言ってるよね、という。弐位相でGoogle無き先史に於けるクライトンの立ち位置の話題がありましたが、GoogleWikipediaAmazonに覆われたこの最近では、「じゃあ何をググるのか」という興味・見たいものに対する範囲とバイアスが重要視される。そういう時、あのサークルの先輩の影響で〜というような意味で、あのサイトやブログや諸作には奇妙な重力がありました。


 多義的というか多面的な作品……というと陳腐な言い方ですが、そこには読者が知らなかった事象への興味を呼び覚ましてくれる部分があるし、逆にジャンル読者が求めていた要素があった。虐殺器官なら「かっちょいい近未来特殊部隊がバスバス殺しまくるのをディテール豊かに描く話」でもあるし、「人間や社会の持つ隠された仕組みが科学によって暴かれ、それにより不可避の大事件が起こるSF」でもあるし、「ゼロ年代の世界情勢から想定され得た悲惨な国際情勢」でもあるし、「マザコンの童貞が横恋慕する話」でもあるわけです。どれか一つの要素が好きならヒットするし、異なる要素に「えっ待ってそんなのあんの」と驚き興味が湧くのもあるでしょう。そういうのが魅力の前半だということです。


 もう一つの魅力が、その内容を具体的にどう伝えるか、という伝え方です。単純にディテール面でのクオリティが高い、文章が読みやすい、というのも大きいですが、語り手そのものが魅力的であった、というのも見逃せません。だってお前アレぞ、バスバス殺しまくるSF特殊部隊の主人公がマザコンの30代童貞だぞ。そんなんで話が成立するのか……というとき、ガッツリ成立してしまったという脅威と、この童貞野郎が妙に卑近で親しみやすい、それが内容への距離を縮めてくれる(けれどももしかしたらこの語り手は嘘つきかもしれない、という緊迫感や不安感が妖しく光っている)。それはキャラクターの魅力と言っても良いが、見せ方の技法の魅力とも言えましょう。そんな技があんのかよ&技のレベル自体も高いぞ、という。


 サークル先輩論に戻っていえば、部室でダラダラつまらん話をされても困るわけで、その「つまらん」とは内容かもしれないが、もしかしたら本人の話し方かもしれない。そう考えたとき、この人の話し方は面白い、というのは有力な魅力に他なりません。端的に言えば、伊藤計劃は入力が広く、出力が上手かった。これに尽きます。それ自体は伊藤計劃氏に限らず、ありとあらゆるクリエイターに通ずる普遍的な話題かもしれませんし、その中でトップだったとかは言いません。ただ、入力の広さで引っかけられ、出力の上手さに当たった、そういう読者が一定数(相当数?)いたことは事実であり、「当たり前の事実」ではなく「特筆して良い事実」だとは思います。


 各劇場版について共通する残念さは、「何を出力するか(≒何を入力していたか)についての取捨選択が、原作ファン的にはいささか〜かなり問題があったこと」「出力の技が割と下手なこと」の二点です。信者ながら踏み絵をガンガンストンピングする気で擁護すれば、前者はまぁ……いややっぱ全然良くねぇんですが(踏み絵ガンガン)、後者が解決できていれば、まだ原作信者と新規ファンの宗教戦争ガハハってバカ笑いして水に流すこともできましょう(水道管詰まって破裂するけど)。

 ただ、現実はそうではなかった。映画として端的に面白くなかった。俺が妙に劇者の帝国を擁護したがるのは、アニメとして映画として、「あっアフガンの風景と空気感素敵」「日本編ガハハ!」ってフックとなる技があるからです。しかし擁護にも限度がある。劇者だって技の下手な箇所はあったし、やっぱその入力カットすんなよっていうのは大きい。俺だって後半〜ラストはどうかと思いますし、冒頭改変は(過去のブログではやたら擁護しましたが)非難されてもやむなし、だとは思ってます。
 これがハーモニーだと「途中まで入力大丈夫ってか原作まんま……はぁあああ”愛してる”ぅぅぅ!?」なのと、技が徹頭徹尾ド下手なので、擁護が出来ないのです……。
 劇殺器官は三作の中では技の平均点が比較的高かったんですが、個技それぞれを見ていると妙に下手な部分も多く、また重要な入力だった母と屍者の国(あとライアンとホーリーグレイル)のカットは、虐殺器官の本質の何割かを喪っています。


 せっかくなんで余談も書いておきます。
 俺が初めて伊藤計劃作品に出会ったのは、中期〜後期スプークテールからだったと記憶しています。そこからブログ弐位相になり、途中なんか小説を書いてるらしい(マジで!?!)→落選したらしい→なんか復活したらしい(ナンデ!?!?)、という流れを見てきた。そうして実際に、本となった虐殺器官を初めて手に取ったときの印象は「あっ、いつもの伊藤計劃さんだ」でした。実家に帰ってきたような安心感っていうと変ですが、いつも見ているサイト/ブログの人が、いつもの調子で小説まで書いてしまった。そこに仕込まれた小説ならではの部分やレベルには心底ビビリましたしクソ楽しかったんですが、本質的な感想は「安心感」だったのです。ラストにはちょっと驚いたんですが、だんだん「何故驚いた、何に驚いた」と奇妙な感覚が湧いてきて、後になって大嘘説を知った時は「ああ、なんだ、驚く必要は無かったんだ。安心し続けていてよかったんだ」とホッとしてしまいました(ちなみに自力で大嘘説にたどり着けなかったのはちょっとした屈辱なんだZE!)。


 だから、「死者の国にいると落ち着く」という感覚は、変な意味で他人事ではなかったのでした。


一日経ってから思い出した補足

 そういえば今更思い出したんで追記するんですが、個人的に伊藤計劃作品(これはブログじゃなくて作品の方ですね)でもう一個好きなポイントがあって、それは何かというと人間はズタズタに解体できてしまうんだ、という視座だったりする。なんかサイコパスっぽい書き方ですが別にバラバラ殺人がしたいわけではなく、人間って機械であり動物なんだ、手を加えることの出来るシステムなんだ、という見方が衝撃的だったのです。人間というシステムは決して神聖でも不可侵でもなく、科学の発達によりいくらでも解体することができる。感動も感情も調理台の上に載せてバラバラにすることができる。そこにはこう、変な感想ですが、妙に不謹慎なワクワク感を感じたのでした。

ザ・コンサルタントのネタバレ感想

スーパーサガワブラザーズ

 ここでネタバレクエスチョンです。貴方は汚い金儲けのため、あえて自社の不正会計を暴き、その上で関係者を消すという回りくどい陰謀を実行する必要があります。そのためには優秀な会計士と、優秀な暗殺者が必要です。二人を雇用した場合、貴方の身に降りかかるリスクをそれぞれ答えなさい。ただし、会計士は佐川睦夫で暗殺者は佐川徳夫とする。


 ワタクシ、2017年最初の映画はバイオファイナルでして、シリーズ物だし去年公開だし・・・と何となく「今年初の映画」というイメージが足りなかった。だから気分的には今日観たこの「ザ・コンサルタント」のほうが映画初めっぽい感覚がある・・・のだが、二連続でトンチキ怪作を観てしまった俺の2017年、一体どうなってしまうんでしょうか。とても不安で仕方がないわ、スコセッシの沈黙観なくっちゃ!!(劇場版虐殺器官
に怯えながら)
 帰宅してから未観の母と話していて気がついたのだが、このザ・コンサルタントって130分もあるんだよな。言われてから気がついたのだが、「じゃあ夢中になって観れる面白い映画だったんでしょ」と母に言われたとき、俺は「いや、変な映画だった・・・」と力無く答えることしかできなかった。いやね、つまらない映画じゃないんですよ。ただ終盤がガイキチなだけでしてハイ・・・。


 かつて一人の自閉症の息子がいた。古い童謡を歌いながらパズルを組み立てる息子。不安と困惑に駆られる母親と、静かに兄の近くにいる弟。この子にはこの子の育ち方があると説く専門家に対し、軍人である父親は厳しい普通の世界でも生きていけるよう育てたいと答える。専門家が「普通、とは?」と問い返すなか、息子は他の自閉症の女の子の助けを借りつつ、将来の躍進を暗示するかのようにパズルを完成させる。
 時は流れて現代。かの息子、ベン・アフレック演じるクリスチャン・ウルフは公認会計士となっていた。自身の高機能自閉症に、自分なりのやり方で折り合いを付けながら。他人との不要な交流を好まない一方、仕事に関しては天から授かった才を見せる。だが彼にはもう一つの顔があった——世界中の裏社会に於いて、会計の些細な、だが致命的な齟齬に悩む悪党達に、救いの手をさしのべる助っ人としての顔。彼は表裏どちらの世界でも天才会計士として活躍していたのだ。いま現在はシカゴで静かに暮らしているが、彼の”倉庫”には大量の銃火器や現金、そして給料代わりの名画が隠されている。
 そんなウルフに二つ大きな動きが迫っていた。一つは相棒が拾ってきた仕事。たまにはカタギの仕事もしたら、と寄越してきた内容は、とある大企業の不正会計疑惑を暴くというものだった。最近は義肢の開発でも躍進しつつある企業の中に何らかの間違いが潜んでいる。手伝いとして配置されてきた女性との交流に少々戸惑いつつ、彼は自分の権能を存分に発揮し始めた。
 もう一つの動きは、本人から少々離れたワシントンにて起きていた。財務省の犯罪特捜部。若手の分析官メディナは突如として、長官のキングから過去を盾に脅迫される。銃を手にした汚点をばらされたくなければ、と強要された命令は、世界中の犯罪者・テロリスト達の裏帳簿に関わる謎の男の調査だった。やがてはクリスチャン・ウルフと判明するであろうその男は、しかし多数の偽名を使い、巧妙に自身の残滓を消し去っている。早速メディナの苦闘が始まったが、ほどなくして判明したのは、この男があるマフィアを皆殺しにした経験があるという斜め上の事実だった。映像には恐るべき戦闘力の片鱗が映っている。この”会計士”は一体何者なのか——?


 精神を落ち着けるために粗筋を書いてみたんですが、どっからどう見てもあんな終盤になるとは思えない。いやね、兄に黙ってついていく弟とか、そういう伏線がないわけではないんですよ。でもよぉ、いきなり護衛に雇った傭兵が仕事放棄して、乗り込んできた暗殺者と兄弟喧嘩したり、床に座ってダラダラ昔話しはじめたらどうするよ。仕事中だろお前ら!! せめて悲劇の対決〜もうあの頃には戻れないの〜ぐらいしろよ!! 雇ったラスボスさんが呆然として監視モニタ見つめる画のシュールさスゴイぞ!!(いやマジで)


 まぁ、終盤以外も結構変な映画ではある。カットバック技法といえど後半の種明しはどうにも話が長く、しかも激しく前後し過ぎている気がする。なんとなくバニシング・ポイント的な間隔(感覚というより間隔)で過去回想重ねてくのかなーっと思ったら一気に回りくどく話し始めるもんな長官。
 一方でアクション映画としてはなかなか面白くって、対物ライフルの容赦ない暴力を初めとするガンアクションと格闘は十分魅力的であった。「一撃で確実に射殺できたけど、念のためダブルタップしておく」とか「ダブルタップで確実に無力化できてるけど、念のため頭に一発」とか容赦なくてすこ。本人の気質にもピッタリだし。たまに偶然なのか意図的なのかCARシステムっぽい構えになるところとか萌えましたよ。格闘戦も、ベルト攻撃や絞め技など飽きさせず興奮する工夫がよく盛り込まれている。まぁベン・アフレックの当たり判定が凄く怪しかったり、暗い場面だとやっぱ見づらいなーって気になる所もありますが、総じてはモダンで熱いアクションにはなっています。
 ただストーリーになると、これが最初は感動話かな?と思ったら、割と主人公一家の狂気がチラついてきて不安になるというスゴイ映画になってしまう。優しいが頑固な父の決意。母との離別。と回想シーンを重ねてきたところ、突如として奇襲するジャカルタでの格闘訓練過去。なんだよアレ、いきなり映画のジャンルが・・・いや、ジャンルは間違えていない。成長したベン・アフレックがスーパー殺人マシーンになったことは、映画の初っ端から明示されている。しかしそれでもあの、いきなりジャカルタ!!格闘技の師匠!!暖色系フィルタの掛かった映像!!の「急に何かが間違ったアトモスフィア」は実際スゴイ。それに黙って兄についていく弟もどことなく不安をかき立てられる。自閉症の兄を持った応答はどんな感情を抱いているのか、というだけでも(こういう言い方はよくないんですが)ドラマになるところを、よりによって一緒にジャカルタ・カラテ訓練である。


 つまり、この兄弟は佐川兄弟だ。喧嘩商売/喧嘩稼業の。当然父も佐川父である。田島や山本陸といった具体的仮想敵がいなかったぶんハッピーEND気味になっているとはいえ。


 ということが観客に示されて以降、俺はもうこの映画がどう着地するのか不安で不安で(興味深い、という意味では「好みの映画」だ)しょうがなかったんですが、ラストがマジ佐川兄弟だったのでもうどうしよう・・・と呆然とするしかないのです、ハイ。
 良い映画か悪い映画か面白い映画か、と問われたとき、ここまで「変な映画」と答えざるを得ない映画も珍しい気がする。おバカ映画、というにも何か違うし(相棒のスーパーハカーの正体は素直におバカ映画だと思いますが)、他人にどう勧めればいいのだろう。いや勧めますよ? みんなこの映画観ろ。観て俺と同じ困惑を味わえ(迫真


スーパーサガワ64(その他おまけ)

ベン・アフレックのキャラ造形そのものは素晴らしいというか、観ていて大変魅力的な人物だったように思う。安心できる綺麗な佐川睦夫(!?)。それを取り巻くストーリーも、冷静に考えると「こんな過去がありました→いま、新しい課題とヒロインと出会いました→挫折しました→ヒロインと関係が進んだり再起したりします」って流れでシンプル・・・なワケあるか、あんな再起ねーよ(仰臥)。一応、ベンアフ萌え映画としては十分なポテンシャルはあったと思いますです。ただし角度によってはキャップに次いでビリー・へリントン兄貴に見える。バッツ筋肉モリモリ。


・弟のジョン・バーンサルって人(あれっこの人FURYとかボーダーラインに出てた人か)の怪演もなかなか良い。ただこういうおしゃべり邪悪悪党って中盤〜終盤で主人公に殺される中ボスキャラ的な造形であり、それもあってあのラストの異形感が増しているような。


・っていうかこの映画、逆平等というか、自閉症ベン・アフレック以外の弟・父もどこかおかしくないか。ヒロインとの触れ合いのなかでベンの自閉症が相対的に扱われるところとか(その倫理的・医学的是非は素人の俺にはわからないんですが)シンプルに優しくて好きなんですが(ドレスとホテルの対比とか)、家族の方はみんなもう、自閉症とかじゃなくってただの狂人だよね・・・というイヤな納得感がある。だから佐川兄弟・佐川親子なんですよコイツら・・・。


メディナさんの顔?権限?の広さ、映画的には萌えるけど冷静に考えるとやや不思議である。財務省特捜部からDHS(国土安全保障省)やFBIの各最先端分析サービスに電話一本でお願いポンポン。いや、アメリカの公的機関ってそういう感じなんスかね。仲悪くなければ別にポンポンいけるのだろうか。


・あまりというか凄く政治的に正しくない話なんですけど、この映画って「いわゆる障害者映画」と一緒にしていいのか、っていうのちょっと気になるんですよね。例えばおめぇよぉ、これと「英国王のスピーチ」や「AIKI」一緒にされたら困るでしょーが(困りません皆さん?)。アクション映画という意味では「チョコレートファイター」の優しさと完成度とはまるで話が違うし、これアレじゃね、ある意味で「七人のマッハ!!!!!!!」枠じゃね? いやある意味過ぎますが。
 全くの余談だが、英国王のスピーチの冒頭の「それ吃音じゃなくって、緊張しているだけでは」と思わず誤解してしまいかねないあの場面、賛否はあれどアレがあの映画の魅力を強固にしていた気がする。感動ポルノという言い方があるし、その考え方と批判性は絶対に必要かつ大事なんですけど、ただ「誰かが困難に立ち向かう映画」ってどうしても、微量ではあるけれど、感動ポルノ成分あるんですよね。そこでこの映画の感動ポルノ成分は「ふつうの」映画となんら変わりません、これは一人の男性が困難に立ち向かう普通の映画なんですよ、と宣言することの意味は大きいと思う(コンサルタントの異形から目を背けつつ


・獄中でコンサル技術を授けてくれた師匠ばなし→からの復讐劇、もっと膨らませてもいい気がするし、むしろこれぐらいあっさりしていてもいいような気もする、のだが迷う。迷うと言えば、実はこの映画の紹介でよくある「昼間は会計士、夜は暗殺者(スナイパー)」というのはあんまり正しくない。ベンアフは必要がなければ殺しはせず(必要ならバンバン殺しますが)、請け負う仕事も会計ばかりで、明確に殺人・戦闘自体を職務としている描写がないのだ。でも殺しの手際は本当にプロ級なので、やっぱちょくちょく(復讐劇以外でも)殺ってたんじゃね?という疑惑は拭えないのだが。軍人時代がちょっと不明瞭で怪しい(あんなに回想多い映画なのに)ので、割とその時点でダーティーなお仕事→からの暗黒非合法会計士へジョブチェンジだったのかもしれませんが。なんか俺見落としてるだろうか。いえ、暗黒非合法会計はたいへん危険な仕事なので、時には銃やカラテも酷使することもあったんでしょうけど・・・。


・ちなみに散々衝撃だなんだ書いている終盤ですが、割と爆笑的な意味も含めての衝撃です。みんなも観てみよう!! 男と男、兄弟の感情がぶつかり合う百合だよ!!!(真顔)
「お前の居場所は分かっていたが連絡しなかった。私の仕事は危険だ。お前を巻き込みたくなかった」
「……俺の仕事も危険だけどな……(居場所分かるんなら仕事も分かるだろ兄貴お前ホント兄貴)」


・あ、あと俺頭悪いんで、会計回りの陰謀ぜんぜんわからなかったです・・・(かなしみ

ローグ・ワンのネタバレ感想

彼女達は罪人であるが、希望に接続することは許された

 ギャレス監督の心意気を踏みにじりやがって、ディズニー許せねぇ・・・!と勝手に偏見を抱いていたんですが、TL的にどうも大騒ぎになっていたので観に行っちゃいました、ローグ・ワン。


 そういうわけなので期待値は微妙だったのだが、にしては驚くほど面白い映画だったので白旗を揚げてはいる。しかしなんだろう、もっとお涙頂戴的な話になりそうと思ったらそうでもなかったのが肩透かしというか。いやお涙頂戴したらダサいことこの上ないんで、これでいいんでしょうけど・・・。なにかが、なにかが「95点の映画」と俺にささやく。100点ではないのだ、何かが。なにかが。


 今回のローグ・ワンで個人的に衝撃的だったのが、「汚い組織」としての同盟軍だった。情報提供者を殺す、内部分裂もする、マッツ・ミケルセンをとりあえず暗殺しようとする、ジンを人質にしよう案があったらしい、フォレスト・ウィテカーはキッチリ「根は優しくて良い台詞を言うが、茎と葉がガイキチ殺人鬼」のタイプキャスティングにする。フォレスト・ウィテカー率いるはぐれもの軍団の戦い方は、明らかにアフガン・イラクで米軍に襲いかかるテロリストのそれだ(顔を布で覆ってる戦闘員いるの流石にマズいんじゃねぇかアレ)。
 そういう同盟軍の負の部分を象徴するのがキャシアン・アンドーというヒーローであり、彼の背後に控える志願兵部隊だった。それはジン・アーソも同じだ。蝶よ花よと育てられていただろう娘がバッチバチの犯罪者。コイツらが、こんなヤツらが、正義と悪の葛藤を高らかに歌うEP4・5・6に接続できるのか。あるいは接続することを「許される」のか。これはダースベイダーが最期にアナキンへ戻ったのと、本質は同じでも枝葉が違う。なんというか、フォースに主導される偉大で過酷な運命・サーガに比べると「たかが一般人風情」「銀河の戦争の爆風で吹けば飛ぶ紙切れ」みたいな感じがひしひしとするのだ。なんとなく、神も運命もこんな連中に赦しのコストをかけそうにない的な悲哀が・・・(ろくろぐるぐる)。


 だから、彼女達の願いは切実だし、それが届くというラストはかなりクる。こんな我々でも希望を繋ぐことはできる。誰かにきっと希望が届く。しかもそれは無責任な願いではなく、命と戦闘力を掛けた作戦行動として顕れる。偉大なるワラキア王は言った、「神は助けを乞う者を助けたりしない。慈悲を乞う者を救ったりしない。それは祈りではなく神に陳情しているだけだ。死ねばよい」「戦え(いのれ)。皆、戦え。戦いとは祈りそのものだ」
 そして神の国ならぬ希望は降りてきた。フォースと共に馬のように。彼女ら罪人の上にも。

 そんな熱い物語に於いて95点感が拭えないのは、構成的にどうもジンやキャシアンの人生の過酷さ描写が足りないという・・・いや、アレで十分なのは分かっている(狙撃未遂の葛藤とか良いしね)。アレ以上やったら絶対クドいしダサいし映画の尺がダメになる。それはわかっているのだが、なんだろう・・・なんだろう・・・(ろくろぐるぐる)。
 罪人が許されるか問題で言えば、実は(引き合いに出すのがおかしいのは承知で)チャッピーの大爆笑「暴力はよくない!!(ガッシボカ」とかキャシャーンとか観ればいいという話ではある。しかし俺はここでどうにも、これが本当に引き合いに出すのがおかしいのか、どこか心に5点として引っかかるのだ。
 フォースと共にあらんことを。

その他、ローグ・ワンの燃え萌えポイント

・結局ローグ中隊の名前元ネタってことでいいんですかね。そんなくだりは一切無かったが・・・(外伝小説とかでやるのかしらん)


・この映画の何が良いって、実は「今までのSW映画では観られなかった風景」を頑張って映せてることではないか。ルーカス神がその想像力を持ってしてあの景色やりたい!この景色やりたい!とやりたい放題やった後で、それ以外のネタが残ってるかどうかというのは大変苦しかった筈である。いやね、EP7のジャクーがタトゥイーンと変わんねーってツッコむのはもちろん野暮ですよ。でもよぉ、でもよぉ、SWって毎回「うお、こんな惑星風景があるのか」ってやっぱ楽しかったじゃないですか・・・。野暮を承知で書くなら、ジャクーとジェダとタトゥイーンを並べたとき、ジェダが何か違うよな、っていうのは絶対「面白い」のだ。あと冒頭の故郷の湿気感もいいですね。


・序盤で「元老院に証言」話が出た時は「お前ら皇帝陛下の御威光ナメ過ぎでしょwww元老院ごときが吠えて意味あんのwww意味あったら銀河独裁になってないじゃんwww議会制民主主義は死んだんですけどー???www」って思ってたんですが、直後にデススター完成前だったらそこそこ有意だったという解説がキッチリ入ったので猛省したの、俺だけですかね・・・。(もちろんオーガナ「議員」と言うように、銀河帝国支配下でも議会が多少影響力を残していたこと自体は旧作からあった設定ではあるんですけど。でもさぁ、パルパティーン皇帝陛下だぜ!?)(あ、でも皇帝陛下に完成報告する前のタイミングだと色々面倒か)


・グランド・モフ・ターキンがバリバリ前面に出てきたのが最高。マジかよ、外伝小説でもないのに(いや外伝ですけど)この人超フィーチャーかよ。EP3でもチョイ役で出てたあたり、ターキンさんって公式サイドとしてもそれなりに重要視されてたのかしらん。これガンダムでいうとトワニングとかウラガンあたりがメインキャラになったクラスの事件じゃないの、センチネルちょい役ってレベル越え的な意味で(トワニング重要キャラ扱いはなんかのTRPGで実在したが、つまりそういうアンオフィシャルならともかく正史ー!?的な、こう)


・クッソかっこいい白服のクレニック氏、その外観に見合わぬ脅威の小物っぷりに萌える。お前はガミラス内で四苦八苦する2199版シュルツか。「ターキン=サン!それは私のイサオシですぞ!」「黙れクレニック=サン」「ベイダー=サン、私のうががが」「つべこべ言ってないで早く問題を解決しろコワッパ」
 あと地味にここでベイダー卿と皇帝陛下の微妙な距離感が伺えたのも地味に萌え萌えである。勝手に報告捏造するんだそこ・・・しないとマズい立ち位置だったか・・・的な。


・EP456皆勤賞のウェッジ・アンティリースさんの名字だけとはいえ出てきたのに萌え。


・空中戦がなかなか美事。Xウィングのバレルロール!対艦祭り!!伝統の狭い所飛行を今度はスケルトン空間でやる!!!など、渋めの技がボディブローのように俺の好みを直撃していく。その気になればもっともっと派手な戦い、あるいは撮り方も有り得たとは思うのだが、これはこれで良いぞ。あ、考えたらジェダイ級〜ハン・ソロ/ポー級パイロットいないからその意味で派手なのはダメか。ただし後述するが、同盟軍の資金と人材が不安になってくるのはご愛敬だ。


・「レッド5は欠番だった」「ブルー中隊はEP4に出る予定だったが合成の色味問題で出せずレッド中隊になった(という噂本当なんですかね」などの小ネタに萌え。AT-ATの意外なモロさにビックリしたんですが、アレはむしろこの戦訓を活かして装甲強化したのだろうか。
 しかしUウィング、凄く良い機体なのに、じゃあEP7のBウィング改造兵員輸送機は一体・・・レジスタンス本当に金無いんだ・・・って悲しみを誘うのやめてほしい。金無い物資無いと言えば、同盟軍のXウィングや艦艇がボコスカ喪失するのを観てクッソ不安になったのは俺だけでせうか。わしらの種がー!!数少ないシーマ艦隊のゲルググがエボルブでー!!(違


ポンコツロボットのKさん、なんなんでしょうねアレ。いいキャラだったけどなんとなく「我々二次創作界隈は、ジャージャー・ビンクスを許さない」みたいな怨念を感じる・・・(考えすぎか)。


・SWオタクを名乗れるほど愛着と知識を持たないマンなので、「同盟軍だか反乱軍だか知らないけど」という台詞に心が震える(←
 同盟軍といえば、なんか想像以上に同盟のユルいgdgd軍だったのが意外かつ嬉しかったですね。マジでヤヴィン戦乗り越えるまで全然統率できてなかったのか。あと冷静に考えると「味方内の相互連絡と意思疎通がイマイチだったため、最期の戦闘が泥沼化している」という側面は否定しきれず、マジでヤヴィン戦前ryとめちゃくちゃ萌える。


・そういやモン・カラマリ星人はそれこそヤヴィン後だかEP5後だかに与した人達(こらそこ、「親藩じゃなくて譜代だったんだ」とか言わない。この人達が艦艇集めるのにに力を発揮したんだゾ)って設定だった記憶があるんですが、EP7リブート設定大粛清時にそこも変更されたんでしょうか。それとももしかして肌の色が違う=別星人というか別勢力だったのかしらん。


ドニー・イェン師のボーしばきが最高だったのはさておき、あの微妙なBL要素はどうなんスかね皆さん(皆さん?)


・劇場出る時にオタク勢の「EP4の酒場にいたヤツらが出ていた」という会話が聞こえたんですが、本当なんでせうか&分かんねぇよそんな細かい事・・・。


・どうしても「噂を聞いたか? T-15退役の話」「今更かよ」という会話がEP7ディスに聞こえてしまう・・・(本当はそんなことないただのEP4オマージュなんでしょうけど)。


・二次創作として最強、との誉れも高い本作ですが、考えたらドニー・イェン師が多少フォースの心得がある程度で、あとはシスもジェダイもいないパンピー映画なのが「メアリー・スーなどいない」という礼節的な意味でもよかったのか。だからこそ、これバトルフロントと間違えてねぇか!?というベイダー卿無双も輝く輝く超輝く。アレ最高でしょ。


・と思ったらまさかのレイア姫で衝撃を受ける。嘘だろ、別人・・・本当に別人?まんまじゃねーか・・・!!! アレ本当はクローンか、マザーベース崩壊時に生き残ったメディックじゃねーの!?!?(錯乱

君の名は。(ネタバレ多めのためツイッターで書けない補遺)

「作戦の名前を言ってみろ」「神酒がポイントだから"ヤシオリ作戦"で」

 実を言うと、君の名は。観る前に一番懸念していたのは、俺が童貞とかどうとかそういう問題よりも「なんかシンゴジに続いて311ネタ映画らしいけど(そこだけ軽度のネタバレを喰らっていた)どう対処するの?」という部分だったりした。タイムスリップして滅亡の危機を叫ぶが誰にも取り合ってもらえない・・・という話、いったい何のアニメだったか、俺の頭のなかでぐるぐると蠢いていてタイトルが思い出せない。まさに君の名は、である。オカリンとほむらちゃんも大変だったなぁ。サラ・コナーなんか精神病院直行だったじゃん。


 そういうわけで、いよいよ「対処」のハイライトとなっていった場面でまずおばあちゃんが三葉ちゃん/瀧君の状態に気がついたこと、その上で信じて貰えまいという常識的な話をしたあたりはかなり嬉しかったというかホッとした。作劇の流れとして、対処前にこの流れがあったということが、どれほど心強く安心できることか。おばあちゃんのおかげで三葉ちゃんは大恥かかずに済んだわけである。今話題の共感性羞恥ってアレ、割とシャレじゃねーしなっていうのも大きい。


 その後「具体的にどうするか」という部分もまた本当に美事であった。そうか、その手があったか。ツイッターで散々しつこく書いた伏線の話がついにここで炸裂するわけだ。炸裂のさせ方がこういう風に上手いわけだ。やってくれた楠、新海誠ォ・・・。恐らくは繭五郎の大火もそういうことだったんじゃないか、とさりげなく推測させてくるのもイイ。そういや本尊がやたら遠いのもそういうことなんだろうな。繭五郎さん大変だったねぇ(涙)。


 若干不思議なのは、震災映画という(雑な)枠組みで考えたときこそ、シン・ゴジラ君の名は。に妙な共通点が浮き出ることである。震災映画という共通点ではない、「震災に具体的にどうやって立ち向かうか映画」という共通点だ。アイツら震災に挑む気だよおいおいマジか・・・ってワケだ。


 単に震災映画というだけなら、それこそ震災で亡くなった彼女への想いが〜とか、そういう平凡な(いや何も平凡じゃないんだが、すまん、ここは悪意のある書き方をさせてほしい)ドラマもある。幽霊と交信したりもう二度と会えない切なさを慈しんだりしてもいい。だがシンゴジも君名も決してそういう方向には行かず、オラァ血液凝固剤!!オラァ町内放送!!オラオラァ!!と全力で殴りかかっている。もう一度書こう、「アイツら震災に挑む気だよおいおいマジか」。2作とも奇跡に祈らず、地震を止めるという超展開にも甘えず、できる範囲——少なくとも観てる観客が「できそう」「これは・・・イケるんじゃねぇか・・・!?」とスムーズに思える範囲での対処法で全力で殺しに掛かってくる。


 俺個人の性癖としては大歓迎なのだが、ただ世間として/ふたつの作品としてなぜそのようなストロングスタイルを取ったのかがよくわからない。これはたぶん、「セカイ系の主人公の無力感が時代によって忌避されて〜」とか「これがポスト決断主義ですよ〜」とかいうありきたりな結論で片付けるべきではない。あえてべき論で書く。シンゴジも君名も、きっとそうではないのだ。じゃあなんなんだ、というのがわからないが。311に半人災という誤ったイメージがまとわりついてる、つまり「ああすればよかった、否、俺達ならああできる」という不遜な誤解でもあるのだろうか。
 違うな。絶対に違う。それならもっと作品の手つきが下品を極め、俺TUEEEな酷い作品(なろう系というより、俺らがなろう系を読まずに揶揄する際の架空の俺TUEEE作品的な意味だぞい)になっているはずだ。阪神の後もそうだったんだろうか(そういや俺、かえるくんもJDCシリーズも未読なんだよな)。


 誰でも願うことはできるが、願いを実装するのは難しい。実装して望む結果を出力するのはもっと難しい。シン・ゴジラ君の名は。の2作は、言わば「難しいチャレンジをガッツリこなすプロの人の物語」だと極論できなくもない。特殊な訓練を受けたスタッフによるエクストリームスポーツ。だから俺個人は大好きなのだ、と同時に、そのアンリアリティ——リアルとリアリティの違いを思い出して欲しい、そしてこれは「俺には身近ではない」という意味でのアンリアリティだ——にドン引きする人もいるのではないか、とも少し想う。巨災対のプロフェッショナルぶりとは違うが、瀧君/三葉ちゃんの活躍は、口噛み酒とラスト以外はどう観ても奇跡などではない、あの二人の実力だ


機動戦士ユアネーム Re:2016年の旅

 ここまで読んで頂いた奇特な方にはお分かりかと思いますが、俺が君の名は。でどうしてもピンと来なかったのが口噛み酒のくだりであった。いや、アレで入れ替わりがもう一度起きるのは全然構わん。ありゃ牧教授のデータだから別にいいんだ(違)。問題なのは、劇中で確かあの口噛み酒に「これは牧教授のデータだ」という解説がなかったことである。体の一部〜とか伝奇的な解説とかはもちろんあったが、そこで「・・・というわけで、呑むと想い人と想いが繋がるんじゃよ(※これは雑例です」とか、そういうレベルでの解説はなかったはずだ。いや俺が見落としただけか。いや糸の話はしてたけど・・・。


 つまり瀧君は、口噛み酒を飲めばどうにかなると「どうしてそう思った」んだろうかって話である。あれだけ伏線バリバリのロジカルな映画なのに。例えば、いえ揚げ足取りですけどね、アレ呑むんじゃなくって被災地の湖に捧げるとかだったらどーすんだよっていう・・・。


 ところで呑んだあとのトリップシーン、脅威の作画とお父さんの半生が混じってこれまた俺大好きな場面なんですが(「私が愛したのは神社じゃない、一葉だ!」って本当に良い台詞じゃないですか。女に恋し家族を愛したおとこの悲鳴、凄くいい)、ただガノタ的にはアレがどうしてもララァ死亡/フロンタル大佐と一緒にサイコ旅行/ELSと和解にしか見えず笑いそうになってアレだった。イイ場面なのに・・・本当に良い場面なのに・・・あとこの手の演出、厳密にはガンダムじゃなくて2001年が真のソースなのに俺・・・(←

シン・ゴジラ(ネタバレ感想)

戦うということ

 一作目・初代ゴジラのラスト。異端の博士がもたらした悪魔の技術。オキシジェン・デストロイヤーは核兵器をも越える危険になりかねない。人類はその力を以てしてようやっとゴジラを抹殺し、博士もまた海に消えた。


 だから本当は、「アメリカがゴジラ核兵器で攻撃しようとしています! ギャレゴジに続いてまた!!」「な、なんだってー!?」などと騒ぐ"権利"など、初代以降のゴジラ映画にも観客にも無いのだ。
いやこれはもちろん言い過ぎなのだが、人類は既に"核に互する禁忌を、やっちまったあと"なのである。ビオランテもそうだろう。だから真にやっていいこととは、核にもオキシジェン・デストロイヤーにもビオランテにも頼らず、ゴジラに如何にして立ち向かうか、という主題なのだと言えなくもない。
(そういってよければ、人類はスーパーX系列やメカゴジラ・モゲラがゴジラを打倒できなかったことをもっと真剣に憂うべきかもしれない。機龍はよくがんばった。抗核バクテリアはもっと真面目に研究すべきだ)


 シン・ゴジラでの異端博士役の人物が行方不明なのは、そういうことなのではないか。


 そしてあの決戦は、決戦に至るまでの奮戦七転八倒は、「いま、ここ」から出せうる限りの回答なのではないか。
 いまここで何ができるのか。それはシン・ゴジラに対して歯が立つのか。勝てるのか。対抗できるのか。


 できる。できるのだ。そういう映画がシンゴジだったと感ずる。


 予告編を見れば今回のゴジラが311だというのは分かりきったことに思えるかも知れない。またゴジラシリーズとしても"お馴染みのアイツが復活した"と思えるかも知れない。けれども、そういう"油断"を粉砕するところからこの映画が、真の「想定外」が始まる。なんだよアイツ、ゴジラじゃねーじゃん!!ゴジラ復活311メタファーじゃねーの!?と動揺することが、観客が災害に見舞われることと一致する。会議中略とか「上陸しちゃったの!?」とかで笑っていられたさっきの瞬間からここへ。
 そこからはひたすら悪夢と衝撃のオンパレードになる。こんなの知らなかった。こんなの想像できなかった。ポケモンみてぇに進化するとか聞いてねーよ。なんで避難完了してないの。その衝撃は、今までのゴジラに見慣れてきた人こそ強く受けるはずだ。ゴジラに通常兵器は効かないという常識を、観客はいつのまにか忘れる。忘れたふりをして多摩川決戦を観る。いやコレ通常兵器効かないとマズいっしょ、といつの間にかのめり込んで心配する。会議と会議と会議という悪癖を乗り越えた先に、自衛隊が実際に怪獣と戦う時は頭部と脚を狙うぞという与太話がフィルム上で現実になり、米軍の貫通爆弾なら流石に怪獣の皮膚だって貫通するでしょという常識感がフィルムに叩きつけられる。


 そう思ってスクリーンを見つめていたら、襲ってくるのはあのイデオン無双だ。


 ゴジラが対空拡散ビーム撃つなんて聞いてねーよ!という不条理。そうなのだ。54年に初めてゴジラを観た観客のひとびとが、その直前まで"かいじゅう"という概念をどれだけ知っていただろうか。空襲の記憶がそういう形で再び襲ってくるなんて誰が事前に予想できただろうか。東北の海からあんな大地震が起きるなんて誰が知っていただろうか。
 けれども現実は起きてしまった。原発が事故を起こすことを想像していなかった政府がー東電がーとよく言うが(また、言うことそのものには問題無いが)、じゃあお前は実際に想像できていたのか?とシンゴジは問うてくる。
 いや無理でしょアレは。


 けれども、映画の登場人物達は戦いをやめない。最初から最後まで戦い続けてやめない。正直言って戦略的には最悪の映画というか、最悪手以外に選択肢が無いという酷い映画ではある。劇中でわざわざ台詞で「第二次大戦時の日本は慢心油断フガフガ」って言ってるくせに、決戦の作戦が「あと弐千万特攻を出せば日本は勝てます!!」寸前じゃん。寸前であって完全同一ではない、という点を絶対に忘れてはいけないにせよ。本当にそれ以外に選択肢が無いという悲劇が前提であるにせよ。
 しかし前提を差し置いてもなおその悪手を取らねばならぬのは、ひとえに悪手を越えた悪手、核攻撃をなんとか阻止する・・・というか、核に頼らず人類がゴジラを撃退してみせなければいけないからだ。本当に、本当の意味で日本国残党勢力がゴジラに立ち向かうということだからだ。同じ二の舞、とはよく言うが、じゃあ同じじゃないやり方とは何だ?と、画面に出ない行方不明の異端博士は日本残党を試しているのだろう。


 オキシジェン・デストロイヤーに頼らない戦い方。核兵器に頼らない戦い方。
 フランスに頭下げたりとか全国の研究機関・工場に無理言ったりする戦い。必死に掻き集めたサンプルで薬品のテストをする戦い。放水車とタンクを掻き集める戦い。挙げ句は圧制者の筈の米国からさえ増援が来る始末(プレデターのバーゲンセールし過ぎでしょアレ)。その結果があの衝撃の最終決戦、あのJR大号泣の無人電車特攻爆弾と、どう考えても決死隊の誤字にしか思えない建機隊(機材は民間から借りました)だ。
 ドロ臭い。みっともない。それでも「いま、ここ」の人類が到達した、これがオキシジェンにも核にも頼らない戦いだ。安直な方法に逃げない、日本残党の本当の戦いだ。電車特攻と建機隊は、もはや演出としてはニンジャスレイヤー級の惨劇(ノリ・レベルとしてはフロッピー殺や野球一回表256点ぐらいじゃんアレ)だ。シラフでアレを観たらギャグにしか思えないだろうが、あの場・あのフィルムではもうあれが最強唯一のシリアスなのだ。そして建機隊の第一小隊は全滅し、一人も生き残らない。間髪入れずに次々と建機第二・第三小隊が死地に投げ込まれる。


 本当はあの膨大な犠牲を前に喜ぶべきではないのだろう。それでも、あの政治ドロドロも科学も決戦も人間がやったのだ。人間が、過ちに頼らないで、人間の手で決着をつけたのだ。


 最終的にゴジラ倒してねーじゃん、というのは本当にラストとして素晴らしいと思っている。どうあがいても人類はあの災害から逃れることはできないが、なんとか共存していけるようになった。多分それは、単純に倒すより、美しい終わり方だ。


シン・ゴジラ、個人的な燃え萌え&泣きポイント

・日本政府、基本的にダメな人がいないので泣く。ダメな習慣や制度はあってもダメな人はいない。あと自衛隊のピエール滝も良い味してる。
・主人公の友達の「まずお前が落ち着け」でガチ泣きしたのは俺だけじゃないでしょ(断言)。宇宙一かっこいいデブ枠に、また一名・・・(※現在までの登録者:ヘルシングの少佐、シュタゲのダル、実写部門だとラジニカーント様とデルトトロとPOIイライアスとウォズ)。
農水省大臣の「避難とはそこに住んでる人々に生活を捨てさせることだから、簡単に言わないでほしいなぁ」に泣く。切れ者昼行灯な人だからってだけでなく、農水省で地ベタを皮膚感覚で知ってる人なんでしょうね。実在性・・・デレマスアイドルのような実在性・・・。
・すわ普通に反米映画か、と思ったら変な位置でバランス感覚を発揮して妙な気分になる米関係描写。個人的には、駐日の米高官の、ギャグめいた逆光悪役カット場面(旧劇エヴァの第二東京かよ)で滲み出る「いや言うほどあんまし日本に核攻撃したくねぇんだけどなぁ」感はちょっと好きだぞ俺。
・「これは本当に日本のお役所描写なのか?こんな人達がこんなにスムーズに集めてもらえて部屋もらえるのか・・・?」と不安になる、政府直轄最強オタク軍団は不安になりつつも萌える。
・上では「いまここ人類の力vsゴジラふがふが」って書きましたが、いえね、ご都合主義(不明博士の不親切ヒント)とか幸運スゲーよなこの映画っていうのは流石に認める。半減期なんだよそれってのはギャグ扱いしてもいい。しかしこれぐらいの「ハンデ」はほら、人類には欲しい。

科学野郎マーシャンガイバー

三日坊主

 すっかりスペクターの感想を放置していたの忘れてたんですが、ううむ、やっぱりモチベーションというかやる気が極超音速で消えて無くなる人間なので、ハイ(反省はしていない
やっぱ長文は書けんなぁ。無理だなぁ。

劇場版火星の人

 というわけで観てきました、原作未読なのにしつこく火星の人呼称してますオデッセイ。
 だいたいの話の筋はもう知ってはいたんですが、なんか想像以上に「科学バトル映画」でビビる。文字通りのライトスタッフ、明白な才能と技能を有するプロフェッショナル集団が、過酷な火星問題とド正面から殴り合う。本当にあたまのいい人達(小並感で申し訳ないが、NASA/JPLの人達は本当に「有能・バケモノ」だ)が血反吐を吐きながら必殺技を思いつくので、ハタから観ている頭の悪い俺はヤムチャ状態になって感動するしかない。襲いかかる難題に、如何にして挑戦し克服するか? 導かれる解答が天才過ぎるあまり、一周回って狂気の沙汰にしか見えないという。
 どなたかがツイッターで「ワトニーには妻子がおらず両親の描写も略されていて、アメリカ映画にしては珍しい」的なことを仰っていたんですが、その意味で言うとこの映画は(しつこく繰り返しますが)科学バトル映画、そういってよければアクション映画の文脈だと言ってもいいと思う。アレよ、ひたすら犯罪者ビルの中で殺戮を続けるザ・レイド1を観て「妻子の感動シーンが足りない」は言うまい。いやザ・レイドにだってキチンとした兄弟愛や感動シーンはあるし、2はさらにドラマ方面へ注力して十二分に成功しているが、要はバランスの問題/そのバランスが別に批判される部分ではないという問題である。オデッセイは明らかにザ・レイド1級のストロングスタイル、全編ひたすら戦い続ける(少なくとも重心バランス取りとしてそっちに偏っている)フィルムであり、その戦い方・ヒサツワザの素晴らしさ、それを放つ宇宙開発の戦士達の有様を楽しむ映画と化している。
 原作からしてそうだったのだろうが、それがたぶんリドスコの性癖とも上手く合ったのだろう。情況(シチュエーション)が撮りてぇ!異質な物同士の衝突(ここでは人類と火星だ)を撮りてぇ!というとき、火星の人という原作は結構ガッチリはまったのではないか。
 そういうわけで、いやドラマ部分も決して蔑ろにはされていないんですが、「具体的な扱い方・取扱時間」としてはずいぶんテンポ良く処理している。そうしてまたバトルに専念するという。プロフェッショナル共の死闘ダラダラ観ていたい、という俺みたいなめんどいオタクにはたまらない映画でした。
 映像的には、冒頭が妙にプロメテウス改だったり、手術がジェイソン・ボーンvsプロメテウス改二だったりして変に笑っちゃったんですが、流石にリドスコだけあって変な部分とかはない。まぁブレランのロス夜景とか天国王国の「地平線から現れるサーラッフディーンの軍勢の灯火」みたいな「うおおおお」ってなるフック美景はないかな?と思ってたんですが、後半の火星ロードムービーとか(あんな砂漠だらけの絵面なのに)結構素敵。音楽は基本ギャグ要員かと思いきや、デヴィッド・ボウイのスターマンには完全にやられました。アレはズルいだろ、アレは。
 総じて言うと、本当に大傑作だけどコレ本当に万人向けなの?というわずかな不安もある大傑作でした。いやしつこく書くけどコレマジで全編バトル映画なんで、そこんとこ好み分かれるんじゃないか?という。科学知識が難しい、というのは意外と問題なくって、そこは正直わかんなくても何とかなるような映画になっておる。問題なのは、これが本当にプロフェッショナル達の、ユーモアを忘れないマーク・ワトニー&地上で宇宙で全速力暗中模索するスタッフ達の、本当にバトルシーンに重点し過ぎている映画だということだ。俺にとっては超絶最高なのだが。

【補足】宇宙に挑む英雄、という文脈について

彼らの、その魂は、間違いなく英雄として称えられる資格を持っているだろう。
彼らは英雄だ。

けれど、その英雄たちの名前をどれくらいのひとが知っているだろうか。
ついこのあいだ、宇宙開発の墓碑名に刻まれた7人の名前を、どれだけのひとが知っているだろうか。

――伊藤計劃


 そういえば、この火星の人akaオデッセイは正しく「宇宙開発に挑んだ英雄のおはなし」なんだよな。むかしむかし、88年生まれの俺よりもっとむかし、宇宙に挑むひとびとは大文字の英雄だったのだという。ガガーリンオリジナルセブン。そして事故で亡くなられた方々と、無事にミッションを完遂した人達。その人達の「感触」が完全に歴史になってしまった21世紀にこの映画という。
 「インターステラー」はこの件にややメタ的に言及していて、「宇宙開発とかお金の無駄でしょJK。そんなんで地球救えんの?」「うっせぇサターンVぶつけんぞ!!救えるに決まってるんだろうが!!宇宙飛行士は英雄だ!!」という物語だった(インターステラーの言う英雄はどっちかっつーとスタトレとかロビンソン一家的な感じも含んでそうだが)。ウルトラマンジャミラも結構モロに隣接している話だよな。ジャミラは見捨てられたマーク・ワトニーであり、その墓には確か「人類の夢と科学の発展のために死んだ戦士の魂ここに眠る」と彫られていたんだったか。
 宇宙と英雄、については伊藤計劃氏のポリスノーツのアレを読めばいいので、俺がここで二度三度書くことはすまい(←いやエピグラフっぽく引用二度書きしてんじゃねーか!)。火星の人は英雄の名前を墓碑銘に刻まなくてもいいようにするため、英雄自身も彼以外の英雄も奮戦する話、そう言ってよければアポロ13の正当後継者なのだ。優秀な頭脳と最先端科学(あとなろう小説でおなじみジャガイモ)で武装し火星に挑む英雄達。それが2016年という時代に公開されたのは、ちょっと不思議ではあるが、たぶん喜ばしいことなのだ。
 っと、ここまで書いておいてライトスタッフ観ていないのは結構マズいことに気がついた(滝汗)。

スペクターは蘇りの記号

「じゃあ君の趣味は?」
「蘇ること(Resurrection)」
——Skyfall


 何故かみんな先行公開だってのに観に行っちゃってるんで、集団に流される弱いオタクのワタクシも行ってきましたよ、007 specter。お美事でした。
 前作スカイフォールがこう、伊藤計劃信者としては「かなり不純な動機」で楽しんでしまったのに対し、今度のスペクターは(それに比べれば)王道な感じの映画でした。細かい事情心情に左右されず、これが007だ!これがスパイ映画だ!という印象的な。
 無論、これは誤謬だ。スカイフォールだって割とやってることは王道だし、逆に今回のスペクターも結構「メタ」なボンドになってる。ただやっぱりスカイフォールのメタ度がガッチガチの反則飛び道具だったのに対し、こっちは「それを乗り越えた後のボンドに何が残っているのか」と「ダニー"プーチンフェイス"クレイグ・シリーズの集大成」という意味/程度のメタというべきか。だからそこにはやっぱり十分な温度差があって、スペクターは順当真っ当、というイメージがあるよなぁと。
 クレイグボンドの過去、スカイフォールでさえ語られなかった部分への肉薄。謎の組織スペクターの脅威。そのふたつをスパイスにしつつ繰り広げられる、コレマジで本当に王道なアクション(筋肉暗殺者さんとか)。「そうそう、こういうのでいいんだよ」を地で行く感じの映画です。


(以下書き途中)